躑躅ヶ崎館

(武田菱)

武田氏
所在地 山梨県甲府市
遺構残存度 ☆☆☆
築城年 永正16年(1519)
築城者 武田信虎
別 名 なし



 戦国大名、武田氏の本拠、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館は、信玄の父信虎が築きました。以後、信虎、信玄、勝頼の3代に渡って、長く武田氏の居館となり、周囲には武田氏の重臣の館が立ち並んでいました。

 館の周りには土塁と堀をめぐらしただけの簡素なつくりで、この事と信玄の言葉の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」という言葉とシンクロして信玄の偉さを表すものとしてよく引き合いに出されます。つまり、「武田信玄は、人は城だって考えていたから自分の屋敷は簡単なものしかつくらなかったんだよ。だから信玄は強かった」という言い方です。

 しかし、実際にはこの躑躅ヶ崎館の場合、館の北の要害山に堅固な山城があり、その要害山城にいざという時ひきこもって篭城するようになっていたようです。ですから躑躅ヶ崎館と要害山城は本来1つのものと考えたほうがいいと思います。
 ですから、信玄が安心して堀一重の館に住んでいたわけではないようです。

 しかし、信玄の代になって躑躅ヶ崎館は大きく拡張され、東曲輪、中曲輪、西曲輪、味噌曲輪、隠居曲輪を敷設し、甲斐の国の政治、軍事の中心にふさわしい構えとしました。館は約250メートル四方。戦国期の居館としては大規模なものでした。

 現在、躑躅ヶ崎館跡は周囲に高い土塁と堀が残り旧観をよく留めています。また館のあとには信玄がまつられた武田神社があります。

 武田神社内には武田氏ゆかりの物を集めて展示する資料館や、また周囲には信玄の遺骸が一時仮に埋葬された「岩窪信玄墓所」、信玄の正室、三条夫人の墓がある「円光院」など武田氏ゆかりの見所が点在します。



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