松代城

(六連銭)

真田氏
所在地 長野県長野市松代町
遺構残存度 ☆☆
築城者 武田信玄
築城年 永禄3年(1560)
別 名 海津城



 松代城は築城当時、海津城と言いましたが、これは武田信玄が上杉謙信と川中島の覇権を争っているときに、川中島の最前線の拠点として、築きました。一説によると信玄の軍師、山本勘助が築いたといいます。

 小さいながらも、城のすぐ北を流れる千曲川を天然の堀とし、地形を生かした設計です。

 12年の長きにわたって争った川中島合戦のうち最も激しかった永禄4年(1561)の戦いのとき、武田信玄はこの城から出陣したことで知られています。


 天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、海津城は織田方の武将、森長可(もり ながよし)が入城しましたが、その後起こった本能寺の変により、長可は畿内に戻り、城主のいない海津城は上杉景勝の手に入ります。

 豊臣秀吉の命により上杉氏が越後から会津へ移ると、海津城は再び森氏に与えられました。森氏にとって海津城の入城は待つこと久しい入城であったため、城名を「待城(まつしろ)」と改めました。


 森氏の後は、徳川家康の6男、松平忠輝が入り、城名を「待城」から「松城」に改名します。その後、松平忠昌、酒井忠勝とめまぐるしく城主が交代します。

 元和8年(1622)、真田信之が信州上田から10万石の当主として入城、以後明治維新まで10代、真田氏が治めました。
 ちなみに、正徳元年(1711)、「松城」から「松代」に改名。以後「松代城」と称しました。

 現在、松代城は本丸跡を残すのみですが、城郭復元工事が行われ、太鼓門などの建造物が復元されています。(平成15年完成予定)
 近くには、真田家ゆかりの宝物が展示されている「真田宝物館」、真田氏の別邸「真田邸」、藩校「文武学校」等あり、松代市外には真田家菩提寺「長国寺」、いたるところには武家屋敷など見所が多いです。



● 山本勘助について
山本勘助は武田信玄の軍師として登場し、作戦や築城の名手として知られています。
身に86箇所の傷を負い、隻眼にして片足は不自由。これだけでも異様で、存在感を放ちます。
しかし、勘助の活躍は「甲陽軍鑑」に書かれているのみで、同時代の他の記録には登場しないことから、明治以後その実在を疑問視されました。

ところが近年、信玄自筆の『古河文書』が発見され、その中で「山本菅助(勘助)」の名が記され実在が確認されました。
 しかし、実在は確認されても勘助は武田軍においてどのような地位にいたのか、またどのような活躍をしたのか。勘助の実像は今だ謎です。

 山本勘助といえば映画「風林火山」で主役に描かれ、三船敏郎が好演していました。



● 松代大本営について
松代といえば、真田氏の城下町として知られていますが、この地に太平洋戦争末期、天皇と大本営を移そうという計画が持ち上がり、着工されました。軍部はここを本土決戦の総司令部にするつもりでした。

 ちなみにこのとき、皇室をはじめ政府、放送局(NHK)、学習院、など移す計画で、まさに遷都といってもいいぐらいでした。
 それぞれの施設がはいる地下壕は縦横に掘られ、その危険な作業は強制労働を強いられた朝鮮人が主に従事したといいます。

 昭和20年の8月の終戦時には計画の70%が完成したといわれています。

 現在、皇室の入る予定だった舞鶴山地下壕は地震観測所に利用され、現在、象山地下壕の一部が一般公開されています。
 いずれにしてもこの施設が活用されることなく終わったことは日本民族にとって幸いなことであったと思います。



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