江戸城

(徳川葵)

徳川氏
所在地 東京都千代田区
遺構残存度 ☆☆☆☆
築城者 太田道灌
築城年 康正2年(1456
別 名 千代田城



 江戸城。ご存知、現在皇居になっているお城です。
 さすが、代々徳川将軍、「公方様」がお住まいになったので、とにかくやたら広い。このお城の普請には全国の大名が動員されました。

 そもそもの、江戸城は関東管領上杉家の家臣、太田道灌が築きました。現在の江戸城本丸ほどの規模だったと考えられているようです。
 道灌在世当時の江戸城はこの当時としてはかなり立派な物だったようですが、道灌死後は荒れたようです。

 徳川家康が豊臣秀吉から関東を与えられると、江戸を居城としましたが、この当時の城は荒れるに任せ、御殿の玄関など舟板をならべて代用する凄まじさだったとか。
 それでも家康が入城した当時は荒地だった江戸の整備が急務であったため城にはあまり手をかける余裕がなかったようです。
 本格的に整備が始まったのは、家康が天下をとったあとのこと、慶長11年(1606)から諸大名を動員してのいわゆる天下普請を行い、整備され拡充され、他の城の追随を許さないほどの広大な城郭になりました。

 現在は皇居になりましたが、旧西の丸が皇居になり一般の見学はできませんが、旧本丸、二ノ丸、三ノ丸など皇居東御苑として解放されています。ただし警備員の目がやたら光っていますが。(笑)

 さて見学ですが、このお城は駐車場に難渋します。だいたい都心のど真ん中ですから車をとめる場所がない。この日はなんとか日比谷公園の駐車場にご厄介になりました。

 日比谷公園から皇居外苑まで歩いていきましたが、その途中のお濠のデカイこと。今まで各地のお城をめぐりましたが、ここまででかいお濠は記憶にないですね。
 お濠端を歩いて皇居外苑にまず入ります。

 皇居外苑は今でこそ芝生が生えた公園ですが、その昔は大名屋敷が立ち並んだところ。ちなみにこの外苑は会津松平家の上屋敷をはじめ、幕府老中たちの屋敷があった所です。

 

 外苑の中ほどには、この公園のボスキャラ、楠木正成の銅像があります。
 楠木正成は「太平記」のヒーロー。大忠臣として称えられ「楠公(なんこう)」と敬称されます。
 しかし。
 楠木正成が仕えた後醍醐天皇は南朝の天皇。今の天皇家は北朝の系統でしょ。若干おかしな感じがしないでもないんですが。まあ、南朝も北朝も同じ皇室ですから、皇室からすればやっぱり忠臣ということになるんでしょうな。

 楠公のでかい銅像を見て、道路をわたって二重橋に行きます。
 二重橋は皇居宮殿の入口。一般参賀ではここを通って宮殿に入ります。江戸時代は西大手門と言っていました。
 本来二重橋は奥の橋の事で、堀が深いので低い端の上にもう一段高い橋を組んだのが名前の由来のようですが、現在は手前の石橋とあわせて二重橋と呼んでいるようです。

 二重橋から濠端を通って大手門まで歩きますが、かなり距離があります。

 途中、桜田巽櫓を見て、大手門まで行きました。
 また、この大手門がデカイのですが、この傍らにはシャチホコが。

 なんでも、この大手門にあったシャチホコだそうです。

 大手門を入ると、警備の詰め所があります。ここで番号札をもらってやっと入城ですわ。その間、やたら警官がいるので他の城めぐりと違って緊張します。

 現在の江戸城は、ほとんどの建物が取り壊されて、現存の建物はわずかしか残っていません。そのかわり、植栽などはかなり手入れが行き届いているので、城跡というより公園という趣がかなり強いです。
 
 しかし、このお城のすばらしさは、石垣ですね。
 急勾配の石垣が、それもかなり高い石垣が延々と続きます。当時の技術の高さがわかります。
 だいたい、江戸城が完成した頃は日本の築城技術は完成期でした。ですから、地方の城のように変化に富んだ城と違って、完成しつくされているので、見る側には正直面白味に欠けるきらいがありますが、技術面の高さには感心されます。ですから、江戸城は城郭建築の技術の粋を集めた城と言えるでしょう。
 ちなみに江戸城の石垣の石材はほとんど伊豆から集めたそうで、いまでも伊豆の石切り場の跡では切り出したものの運ばれなかった石が残っているようです。

 本丸に着くと奥に天守台が残っています。

 天守は家康、秀忠、家光の代にそれぞれ建てられました。現在残る天守台は家光の代に建てられたもので、5層6階ですが、明暦の大火で焼失。それ以後再建されませんでした。現在残っていれば国宝なんですがね。

 広大な本丸には御殿が立ち並んでいて、政治や儀式を行った「表向」。将軍が日常を過ごし政務を取った「中奥」。御台所、側室を始め多くの女官がすんだ今話題の「大奥」の3つの区域に分かれていましたが、「大奥」は文字通り本丸御殿の奥。つまり天守台に近い所にありました。
 「表向」の方に歩いてゆくと途中にご存知「松の廊下」の跡の小さな石碑があります。
 ここがあの「忠臣蔵」の原点になったんですな。意外なことですが、本丸御殿でもかなり隅の方に位置しています。

 松の廊下から更に歩いて行くと「富士見櫓」があります。
 「富士見櫓」は天守焼失後は天守の代用として使われたようです。代用とはいえ地方に行けば堂々天守クラスの建物です。さすが、「補欠」でもこの貫禄。さすが公方様のお城は違います。
 一通り見終わったあと、北の丸(武道館のある方)に行きましたが、そちらのほうはあまり遺構は残っていません。ちなみに戦前は近衛師団がありました。注意して歩くと近衛連隊の記念碑がちらほらあります。

 今回の江戸城。城域の広大さと築城技術の高さを目の当たりにしましたが、こんどは昔の絵図と比べながら周辺を歩くのも面白かもしれません。



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