上田城

(真田六連銭)

真田氏
所在地 長野県上田市
遺構残存度 ☆☆☆
築城者 真田昌幸
築城年 天正12年(1584)
別 名 尼ヶ淵城 伊勢崎城



 徳川の大軍を2度も破った真田氏の居城。
 
 千曲川の河岸段丘の上に、真田昌幸によって作られた平城。
 天正13年(1585)、上州沼田領をめぐって徳川家康と対立、徳川の大軍の攻撃を受けましたが、城の堅固さと昌幸の知略によりこれを撃退しています。

 更に、慶長5年(1600)天下分け目、関が原合戦の際、昌幸は西軍につき、中仙道を西に上る徳川秀忠3万6千の大軍をひきつけこれを足止めさせ、ついに関ケ原合戦に遅刻させる働きを示しています。

 上田城は、小さい城で天守閣すらありませんでしたが、2度も大軍に攻められながら、却って小よく大を制した城は全国でも希有の城といえるでしょう。

 関ケ原合戦後、真田昌幸は高野山に配流となり、その跡は徳川についた昌幸の長男、真田信之が入城しました。
 
 現在の上田城の遺構は仙石忠政が真田氏の後を受けて入城し、整備したものです。
 その後、仙石氏3代を経て松平氏が入り、7代166年間をもって明治維新を迎えました。

 なお、現在、藩主屋敷跡は上田高校となり、居館の表門は現存して高校の正門となっています。


 私にとって真田昌幸といえばこの人、丹波哲郎。NHK『真田太平記』の昌幸役の余りのはまり役振りに、いまでも真田昌幸役はこの人以外に考えられません。



「城を歩く」トップに戻る


「御宿 松代屋重五郎」トップに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送