高遠城

(下がり藤)

内藤氏
所在地 長野県上伊那郡高遠町
遺構残存度 ☆☆☆
築城者 武田信玄
築城年 天文16年(1547)
別 名 兜山城

 桜で有名な高遠城です。

 武田信玄が伊奈攻略の拠点として築きました。一説には山本勘助の縄張り(設計)と言われています。

 一時、武田勝頼が城主として入城しました。その関係で、勝頼の母(湖衣姫、諏訪御料人)の墓が城下、建福寺にあります。

 天正10年(1572)、織田信長が武田勝頼を攻めたとき、高遠城は勝頼の弟、仁科五郎盛信が3千の兵で篭城しました。一方攻める織田軍5万。
 3月1日、突入戦が行われ、落城。仁科盛信は切腹します。しかし、この戦いで織田方の死者、2千7百余りに対し、城方2千5百余。壮絶な戦闘であったことがわかります。

 

この後、高遠城は保科氏が入ります。
 この保科家に養子に入ったのが、保科正之。彼は、実は2代将軍徳川秀忠の実子でしたが、お妾さんに生ませた子供だったため、正室にはばかって保科家へ養子に出しました。

 保科家を継いだ正之は異母兄、徳川家光に人物見識を評価され、山形20万石を経て、会津23万石を与えられました。
 この会津保科家が後に会津松平家と改称し、葵の紋の使用が許されました。

 ですから、高遠の侍たちは正之とともに会津に移り住み、その子孫たちは明治維新の戊辰戦争を戦い抜きました。その戦い振りは今に至るまで語り継がれ、まさに矢尽き、刀折れるまで会津若松城に篭りました。
 会津の戦い振りの原型が、高遠の攻防戦にあったのではないか?つい、そんなような気がします。


 かつて、高遠には焼き味噌を大根おろしで溶き、その出し汁でそばを食べる習慣がありました。この習慣は保科家の会津移封にともない会津に伝えられました。
 高遠ではいつしか消滅した習慣も会津では綿々と伝えられ「高遠そば」はどこのそば屋にもあるそうです。
近年それを知った高遠町では会津若松市に教えられて「高遠そば」を復元。現在町のいたるところで食べられるようになりました。
 高遠と会津の歴史の繋がりを端的に物語る話ですね。


 保科氏の後は鳥居氏が入り、天領を経て内藤氏が入城。明治維新を迎えました。



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