小田原城

(北条鱗)

北条氏
所在地 神奈川県小田原市
遺構残存度 ☆☆☆
築城者 北条早雲
築城年 明応4年(1495)
別 名 な し



 小田原城は、もともと西相模の豪族大森氏の居城だったのがその前身ですが、明応4年(1495)、伊豆の北条早雲が奪ってから、北条氏の居城となり本格的な築城が始まりました。

 早雲の小田原城の取り方はちょっとひどいです。
 当時、早雲と大森氏は同盟関係にあったのですが、あるとき早雲は大森氏に、
 「狩の獲物が最近そちらに入ってしまって狩ができなくなった。ついては勢子をいれて獲物をこちらへ追い立てたいので、勢子を領内に入れることをお許し願いたい」
 と、申し入れ勢子に化けた兵を箱根山に入れました。そして、多くの牛を集め、その角に松明をつけ箱根山を駆け下らせ、あたかも大軍が攻め寄せたようにみせて一気に小田原城を奪いました。

 その後100年、北条五代の居城となり、関東経営の拠点として改修をおこない、希に見る巨城となり、難攻不落といわれました。
 特に3代氏康の時には、上杉謙信、武田信玄とあいついで攻撃を受けましたがついに落すことができませんでした。

 しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の大軍に攻められ大攻防戦が繰り広げられました。その間、小田原城では北条の家臣が抗戦すべきか、開城すべきか延々と評定(会議)を行い、このことから結論の出ない長い会議を「小田原評定」と言うようになりました。
 結局、3ヶ月の攻防の末、開城ということになり、当主北条氏直は高野山に配流。その父氏政は切腹させられ関東の雄北条氏は滅びました。

 北条氏の後、関東に入った徳川家康は、関東の入口にあたる小田原城に、重臣大久保忠世を入れ、その後、阿部、稲葉と譜代大名が入りました。
 再び、大久保氏が入り、小田原は11万3千石の城下町として栄えました。

 天守閣は、明治の廃城令にともない破却されましたが昭和35年5月に再建されました。



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