長篠城

(奥平団扇)

奥平氏
所在地 愛知県南設楽郡鳳来町
遺構残存度 ☆☆
築城者 菅沼元成
築城年 永正5年(1508)
別 名 末広城 扇城



● 長篠城址の対岸、牛淵橋より城跡を望む
 

 日本合戦史上有名な、「長篠の合戦」の発端となった、長篠城です。

 長篠城は信州と三河、遠江の要衝にあり、武田、徳川の争奪の場となりました。
 長篠の合戦の当時、長篠城は徳川家康の娘婿、奥平貞昌が城主として入城しました。

 天正3年(1575)、5月、武田勝頼は1万5千の大軍をもって長篠城を攻めました。それに対して城に篭る奥平勢はわずか500人。

 しかし、長篠城の宇蓮川、豊川にはさまれた断崖絶壁の上にあり、大軍を擁する武田軍も攻め倦みました。

 この篭城戦の最中、鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の活躍があり、長篠城の応援にきた織田徳川の連合軍と長篠の東、設楽ヶ原で武田勝頼は決戦。武田軍はここで大敗を喫しました。


 現在、長篠城は本丸跡を中心に空堀と土塁を残す小さな城ですが、戦国の歴史を大きく転換した長篠の合戦ゆかりの城として、訪れる人も多いです。




● 鳥居強右衛門について


長篠篭城時のこと。
頑強に抵抗した奥平軍も武田軍に兵糧倉を落とされ、城の命運も尽きようとしていました。
 この上は、岡崎の家康のもとに援軍を乞う使者を送ることになり、その使者に鳥居強右衛門(とりい すねえもん)が選ばれました。
 強右衛門は警戒の厳しい武田軍の目をかいくぐって囲みを破り、岡崎の家康のもとに到着。このときにはすでに織田信長も到着して、長篠に出陣する直前でした。
 
 このことを、一刻も早く城に知らせようと再び城に入ろうとしましたが、武田方に捕まります。
 
 捕らえた強右衛門を取り調べた武田勝頼は、すでに岡崎まで織田徳川の大軍が来ている事に驚き、一刻もはやく長篠城を落すため、
「城に向かって援軍は来ないと叫べば、士気は沮喪して落城するであろう。もし首尾よくいけばそなたを重く用いるであろう」
 と、強右衛門にもちかけました。

 城の前に連れていかれた強右衛門は、城に向かい、
 「織田、徳川の両大将はすでに4万の大軍を率いて岡崎を発した。運が開けるのはもうすぐぞ。城を堅固にお守りなされや!!」
 と叫びました。これにより、城の士気は大いに揚がりました。

 これに怒った武田軍は、強右衛門を磔にしました。
 武田方の侍、落合左平次は強右衛門の働きと最期に感動して、こときれようとした強右衛門にことわり、磔の姿を描いて自分の旗指物にしました。この絵が上の絵です。



● 設楽ヶ原古戦場

いわゆる「長篠の合戦」が行われた、場所です。長篠城のある鳳来町のとなり新城市にあります。

 連吾川をはさんだ谷あいが戦場でした。現在は水田が広がっています。

 現在、織田徳川の陣に設けられた馬防柵が復元され、周囲には合戦を偲ぶ史跡が点在しています。





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