関東有数の石垣を誇る 甲府城
平成17年1月29日



 甲府城の稲荷櫓が復元されたと聞いて早速行ってきました。

 甲府城はあまり世間になじみがないというか、どちらかというとマイナーなお城です。やはり、山梨=武田信玄というイメージがデカイため、信玄に関係のない甲府城は忘れられちゃうんですかね。甲府城のそばまで甲府駅や民家や公的施設(山梨県庁他)などが迫っているため、史跡というより市民公園という趣きが強いですね。

 しかし、この城は石垣がすばらしい。もともと一条小山と呼ばれた山に築かれたこの城は豊臣方の武将、浅野長政が完成させました。浅野長政は豊臣秀吉の義理の弟にあたるので、関東の徳川家康の押さえとして期待されたのでしょう。堅固なつくりにするのと、甲斐の民衆を威圧するため関東では珍しい石垣造りにしたのだと考えられます。
 その後、徳川幕府が開かれると、甲府は関東の入口として徳川一門や幕府の直轄地となり甲府城も整備されました。

 しかし、実際この城に来てみると丘が石垣に覆われている感じでちょっと壮観です。もともと関東の城は土を掻きあげた土塁の城が多いのですが、ここまで石垣で覆われた城は関東では珍しいのではないのでしょうか。恐らく、石垣のすばらしさは関東では江戸城に次ぐのではないかと思います。

 ところで、この城は甲府の町の中心にあります。
 先ほど言いましたが住宅地にあるため専用の駐車場がありません。商店街の有料駐車場を使うしかないようです。
 堀を渡って城に入ります。
  
 石垣を見ながら本丸まで登ってゆきます。
本丸の入口にはこのようなモニュメントが。宝石の町、甲府ということで宝石をかたどった何かと思いましたが、そうではなくて、明治天皇が河川の氾濫になやむ山梨県民のために山梨県内にあった御用林をすべて山梨県に下賜したのを記念して建てたものだそうです。
天守台です。かなり大きなものです。江戸時代の絵図ではすでに天守は描かれていないので、天守はなかったようですが、発掘調査では天守台の下から金箔付きの鯱や瓦が発見されました。ボランティアの案内の方が話してくれたのですが、浅野時代には天守が建っていたのではないか。しかし、浅野家が和歌山に移るとき破却したのではないかと言っていました。
 確かに考えられない話じゃないかもしれません。金箔付きの瓦は豊臣系の大名の居城に用いられることが多く、浅野家も豊臣恩顧の大名のため金箔付きの瓦を使った天守を建てたとしても不思議ではありません。
 しかし、関ヶ原合戦の後、徳川に臣従した浅野家は徳川家への忠誠を証明するため、豊臣系の城の象徴である金箔瓦の天守を破却したのではないかと考えられないこともない。また、浅野家が和歌山に移封された後、徳川自らが豊臣色を一掃するため破却したとも考えられます。いずれにしてもこの天守を巡っては政治的な色合いが濃いと考えられます。

稲荷櫓がある稲荷郭の入口、稲荷門です。この郭には城の守り神だったお稲荷さんが祭られていたようです。

これが、今回の目的、甲府城稲荷櫓です。去年完成したようです。

写真でもわかりますが外側は石落としの出窓を設け凹凸をつけ装飾も兼ねていますが、郭内側はそんなに装飾がありません。それでもかなり立派な櫓です。

 甲府城は現在も整備されつつあります。この一連の整備事業を通じて甲府城の知名度が上がるといいですね。


「甲府城」に戻る



「城を歩く」トップに戻る


「松代屋重五郎」トップに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送