甲府城

(徳川葵)

徳川氏
所在地 山梨県甲府市
遺構残存度 ☆☆☆
築城者 徳川家康
築城年 天正11年(1583)頃
別 名 舞鶴城 一条小山城



 武田氏が滅びた後、甲斐の国は織田信長が支配しましたが、信長が本能寺の変で倒れた後、甲斐の国は混乱しました。
 その混乱に乗じて、徳川家康は甲斐に進駐。一条小山といわれた丘陵に重臣、平岩親吉に命じて城を築きました。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすと、徳川家康を関東に移し、家康が退去した甲斐の国には、重臣、加藤光泰、光泰亡き後は、浅野長政を入れました。
 これは関東の徳川家康をけん制するためであったと考えられます。
 そのため、関東には珍しい、石垣造りの巨大な城が造られました。

 関ケ原合戦後、浅野氏は紀州へ。西関東の要衝甲斐は、再び徳川一門の手に入ります。
 家康の9男、義直(後の尾張徳川家の祖)、忠長(2代将軍秀忠の次男、のち自害)、綱重(家光3男)、綱豊(後の6代将軍家宣)と、徳川一門が続きました。

 宝永元年(1704)、5代将軍綱吉の重用を受けていた、側用人、柳沢吉保が武蔵川越から15万石を領して入城。城の修築と城下町の整備が行われました。

 柳沢氏が大和郡山へ転封後、甲斐は天領となり「甲府勤番」の支配に置かれ、明治を迎えました。


 甲府城には元来天守閣が無いと言われていましたが、近年の発掘調査により、天守台下から金箔付きのしゃちほこが発掘され、天守閣の存在が議論されるようになりました。
甲府城天守台。ここからは甲府市内が一望できます。


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