郡上八幡城

(青山菊)

青山氏
所在地 岐阜県郡上郡八幡町
遺構残存度 ☆☆☆
築城年 永禄2年(1559)
築城者 遠藤盛数
別 名 積翠城



 郡上踊で有名な八幡町のどこからも望める、八幡山に郡上八幡城はあります。
 永禄2年、東氏を滅ぼした遠藤盛数は、この八幡山に城を築き、その後入った稲葉氏によって現在残る遺構が完成しました。
 もっとも築城に際しては人柱伝説が残るなど、築城が難工事であったことを物語っています。

 宝暦8年(1758)青山幸道が4万8千石で入城。以後明治まで続きました。

 明治3年(1870)、城郭は取り壊されましたが、昭和8年(1933)、木造天守閣が再建されました。ちなみにこの天守閣は大垣城天守閣をモデルにしたといわれています。

 
八幡山は頂上近くまで車で登れますが、道が狭く折り返しがきついので大きな車の場合は高度なテクニックが必要でしょう。(笑)

 天守閣からは市街地が一望でき、山間の狭い町ですが風光明媚な自然が印象的です。



●凌霜隊(りょうそうたい)
 幕末。戊辰戦争が始まると、郡上藩もその去就に迷いました。

 国元、郡上の藩論は、朝廷への恭順を決定しましたが、江戸藩邸ではその決定に異論を唱え、あくまでも幕府軍につくことを唱える一派がありました。
 江戸家老、朝比奈藤兵衛は、幕府軍の勝利したことも考え、息子、朝日奈茂吉を隊長とする47名を脱藩させ、幕府側の一隊として「凌霜隊」を組織しました。

 凌霜隊は北関東を転戦。前橋、小山、宇都宮。那須塩原から大内峠をこえて、会津若松へ入城。鶴ヶ城の篭城戦を会津藩士とともに戦いました。

 会津開城後は、罪人として郡上八幡に護送され、禁錮の処分を受け入牢。明治3年釈放されました。

 写真は、天守閣下の「凌霜の森」に建つ「凌霜隊の慰霊碑」です。



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