会津若松城
(会津葵) 松平氏 |
所在地 | 福島県会津若松市 |
遺構残存度 | ☆☆☆ | |
築城年 | 至徳元年(1384) | |
築城者 | 芦名直盛 | |
別 名 | 鶴ヶ城 |
白虎隊の悲劇で有名なお城です。
お城の歴史は古く、至徳元年(1384)芦名直盛によって築かれ、「黒川館」と名づけられたのが原型です。
天正18年(1590)蒲生氏郷が92万石の領主として会津に乗り込んでくると、黒川という地名を「若松」と改め、城を大改修し天守閣を築きました。そして城の名を「鶴ヶ城」としました。
蒲生氏郷死後は、越後から上杉景勝が120万石の領主として入城しましたが、関が原の合戦にやぶれて米沢に転封になると、再び蒲生氏が入り、その後加藤氏を経て、徳川秀忠の3男(実は隠し子)、保科正之が23万石で入城します。
保科正之以降、9代容保(かたもり)まで(三代正容のときに松平に改姓)226年間、東北の雄藩として栄えました。
幕末維新の動乱において、会津藩はこの城に篭って新政府軍の攻撃を一身に受けます。とくに、白虎隊に代表される様々な攻防戦の悲劇は今も語り継がれています。
激しい攻防戦およそ1月余り。ついに降伏するかたちで落城しますが、新政府軍が攻め落とすことができず、攻めあぐんだ点においてこの城の堅牢ぶりが発揮されました。
明治6年城は廃城令にともない破却されました。「賊軍の城」ということで真っ先に取り壊されたそうです。
その後、城跡は荒れるにまかされましたが、この様を見て作詞家の土井晩翠が「荒城の月」を作詞しました。
昭和40年。天守閣が再建され、往時の白亜の美しい天守閣が聳えています。
明治初年に撮られた会津若松城の古写真。 戊辰戦争中、天守閣は新政府軍の格好の目標となり砲弾が集中しました。 この写真はこの時の攻撃の凄まじさを今に伝えます。 |
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