2004年7月19日
「銅像」の取材で、三重県まで行ってきました。
目的は津城の藤堂高虎と、鈴鹿市の大黒屋光太夫です。
いつものように、行き当たりばったり。どうなることでしょうか。
朝の5時に出発。いつものように岐阜の中津川まで木曽路を急ぎます。
中津川から一宮まで高速で行きましたが、一宮から再び下道です。ナビの案内通りに行ったのですが、結構変な道を通されてしまいました。(笑)
〈桑名で平八郎さまと再会〉
そのまま、一般道で桑名まで。
桑名といえば徳川四天王、本多平八郎忠勝の居城。昨年、本多忠勝の銅像があるという情報を得て桑名に来ましたが、そのときはあいにくの曇天で平八郎の銅像の映りがいまひとつでした。
今日は晴天。もしかしたらいい写真が撮れるかもしれない。そこで、通りがかりということもあって桑名へ寄ってみました。
平八郎さまの銅像は、旧桑名城にあり、桑名市民プールの近くにあります。
かなり、大きな銅像で、有名な鹿角の兜をかぶり、後ろには名槍「蜻蛉切」が立ててあるという立派な銅像です。
この日は晴天だったのですが、折悪しく雲が多く、写真を撮ってもいい映りではありませんでした。残念ですが、平八郎さまのお姿を再び拝めたということで良しとしましょう。
〈大黒屋光太夫のふるさとへ〉
桑名からそのまま車を走らせます。
事前情報で、鈴鹿に大黒屋光太夫の銅像があるということをつかんでいたので、そちらに向います。
鈴鹿市の若松という伊勢湾に近い集落が大黒屋光太夫の生地で、地元の若松小学校に銅像があります。
大黒屋光太夫は、江戸時代中期の伊勢白子浜の船頭。彼を乗せた神昌丸は伊勢から江戸へ向う途中、遠州灘で嵐に遭難。そのまま漂流します。漂流8ヶ月で着いたのがアリューシャン列島のアムチトカ島。
日本へ帰国するためやっとこさロシア本国に渡ることができましたが、渡航許可を求めて広いロシアを彷徨います。
というのは、当時日本とロシアには国交がないので出先の地方都市の役所じゃ対応できなかったんですね。で、より大きな都市の役所へタライマワシ(タライマワシは日本だけじゃないんですね)にされ、ついにシベリアを渡って首都のペテルブルグに到着。エカテリーナ女帝に拝謁してやっと帰国の許可を得ます。
ロシア船によって日本に帰国できたのは漂流から11年。17人の乗組員のうち帰国できたのは光太夫ともう一人の水夫の2人だけでした。
大変な苦難の末の帰国でしたが、鎖国時代の日本において外の世界を見てきた光太夫は幕府にとってやっかいな存在でしかなく、帰国後光太夫は九段そばの薬草園で幽閉生活(といってもかなり出入りなど緩やかであったようですが)を送ったようです。
光太夫については、映画にもなった井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」で有名ですが、私は漫画の『風雲児たち』(みなもと太郎著)で知りました。
ところで、鈴鹿市の若松駅には「ようこそ大黒屋光太夫のふるさと 若松へ」とデカイ看板がでていましたが、光太夫関係の史跡が少ない。やっぱり長らく歴史に埋もれていた人物だったんですな。
そのなかでも、若松小学校に「大黒屋光太夫資料室」があります。資料館ではありません。資料室です。
小学校の一部を解放して資料を展示しているようです。土日休日の1時から4時までが開館のようです。まだ時間は11時。先を急ぐ私は泣く泣く後にしました。
ところで話は少しそれますが、最近の物騒な世相を反映してか、学校の周囲には「関係者以外立入禁止」とか、なかには「防犯カメラ作動中」の看板が。
確かに、子供を狙った犯行が急増しているためのやむを得ない措置なんでしょうけど、なんだかいやな気分になりました。
〈昔の光いまいずこ 津〉
いよいよ津に入ります。
津は、伊勢伊賀32万石の大封を治めた藤堂家の城下町。大坂の陣直前に入った藤堂家は明治維新まで他所に移ることなく伊勢伊賀を治めました。
その居城、津城は津市市役所の側に「お城公園」として残っています。
早速、津城へ。
津城は「お城公園」の名前の通り、城跡というより公園といった色合いが濃い城跡です。
周りは、石垣と堀に囲まれているのですが、一歩足を踏み入れると木々や草が生い茂りしかもあまり手が入れられてない様子。
城跡を思わせるのは、昭和になって造られた、ちっこい隅櫓のみ。
敷地の中ほどに、藤堂高虎の騎馬像があります。
馬上から軍勢の指揮をとっているような格好で、いい銅像です。
藤堂高虎については「日本史人物伝」や「銅像拝見」を参照していただきたいのですが、いままで「裏切り上手」とか「おべっか使い」なんてあまりいい評判がなかったのですが、最近では「先見の明がある」とか「実力で世の中を渡り歩いた人物」とか評価も変化しているようです。
織田、豊臣、徳川の世の中を槍一本からのしあがり、最後は家康、秀忠、家光の信頼を得て準譜代の扱いを得て大名になったのは常人にできることではありません。主人をかえてもすぐお呼びがかかるというのはそれだけ実力があったという証拠でしょう。
それにしても、現在に残る津城の遺構の寂しいこと。
「これが、あの藤堂家の居城かい」と思うとやや拍子抜けしたのが本心です。
お城をあとにして、藤堂家の菩提寺「寒松院」へ行きます。
寒松院に着いて私は愕然としました。
お寺らしい建物は写真のお堂だけ。お堂の前は駐車場(貸し駐車場も含む)になっており、あとはお墓のみ。
本堂横に、藤堂家の墓があり、高虎のでかい墓をはじめ歴代藩侯の墓が並んでおりそれは壮観なものですが、お城といい、お寺といい、あの藤堂家の遺構としてはこれはいかがなものかと。
しかし、寒松院の説明書きを読むと、津の大空襲で焼失してしまいそれ以後規模が小さくなったとあります。
やっぱり、空襲をここも喰らったんですね。それで藤堂時代の遺構が津には皆無に等しいぐらい残っていないのでしょう。
藤堂といえば天下の大藩。その本城の津には何かがあると期待したのですが、あてハズレだったようです。あーあ。「昔のひかり今いずこ」
〈伊賀上野は忍者と芭蕉のまち〉
しかし、いくら空襲で何も無いとはこれは寂しい。
ここまで来て納得いかん!!
時間は2時を回っておりましたが、決心をかため伊賀上野まで足を延ばすことにしました。
津から上野まで車で1時間と少しばかり。広い国道もあってすんなり到着しました。
早速、まずは伊賀上野城へ。
伊賀上野城は小高い丘に築かれた城。
現在の遺構は藤堂高虎が築いたものです。
徳川家康が来るべき大坂の陣に備え、腹心の藤堂高虎を伊勢と伊賀の領主に据え、大坂攻略のための基地としたのがこの伊賀上野。
それだけに、高虎はこの伊賀上野城を念入りに作ったようです。例えば日本でも有数な高石垣がその表れの一つ。
本丸から、内堀に落ちるその石垣の高さは、上からみればクラクラするほど。
築城技術の高さが如実に表れています。
このように、要害である伊賀上野は藤堂家も大変重視しており、藩祖高虎も「津は平城なり頼むに足らず、いざという時は伊賀上野こそ」と軍事的に頼みにしていたとか。
ところで、現在3層の立派な天守が建っているが、これは高虎時代のものではなく、昭和になって建てられた物。
実は当初天守は建てられたのですが、建築中大風にあって倒壊。その後、大坂の陣も片付き一国一城令により城の修築も思うままにならなくなったので天守閣はついに建てられなかったようです。
現在のものは昭和10年、地元出身の国会議員川崎克氏が私財を投じて、高虎の築いた天守台の上に作った木造復興天守です。しかし、私財を投じてというところが凄い!!
中に入ると木造ですから戦後の鉄筋コンクリートの城とは趣が違います。天守内は藤堂家ゆかりの鎧や刀槍が展示されていました。
特に、津城の高虎の銅像が冠っていた高虎所用の唐冠の兜が展示されており、この兜は秀吉から高虎へ贈られ、さらに高虎から藤堂家の家臣に送られたものだそうです。
また、上野出身の松尾芭蕉が冠っていた笠もあって大変興味深かったです。
ところで、伊賀上野というと、私が思い出すあるドラマがあります。
NHKのある年(もう10年以上前ですが)の正月にやった時代劇で『不熟につき』というドラマ。
伊賀名張の藤堂家の分家、藤堂宮内家の独立運動に対する伊賀上野城代の話。
小林薫、中村梅之助、黒田アーサーなどの好演が光った名作でした。
この話を上野城の事務の方に話をしたのですが、何しろ昔のドラマの単発モノだったためか、ご存知なかったようです。
本丸から下がったところに、松尾芭蕉を偲んで建てた「俳聖殿」があります。
これは、松尾芭蕉生誕300年を記念して昭和17年9月に建立されたもので、こちらも天守と同じく川崎克氏が建てた物。しかもこのユニークな外観は芭蕉の旅姿をかたどったもので、2階の屋根は笠、1階の屋根は衣の裾をあらわしています。
しかし、城といい、俳聖殿といいこういうものを建ててしまう川崎克というお人、たいした人物です。
お城の中にはこんな電話ボックスがありました。
俳聖殿のすぐ隣には「忍者屋敷」があります。
伊賀といえば忍者。忍者といえば伊賀という位ここは忍者が有名な土地。なんせ、あの俳聖芭蕉も伊賀上野の出身というだけで忍者説が出るほど。伊賀と忍者は切っても切り離せません。
それに因んで、忍者のからくり屋敷と資料を展示したのがこの「忍者屋敷」という訳です。
私が子供の頃、子供向けに書かれた忍者についての本が多数ありましたが、そのすべてにこの忍者屋敷が紹介されていました。つまり忍者界の有名観光施設。それだけに興味があったのですが、いい年して忍者もないものだと思って中には入りませんでした。(笑)
〈伊賀越 鍵屋の辻〉
さて、とりあえず、上野城をあとにします。
伊賀上野といえば「鍵屋の辻の決闘」が有名です。
「鍵屋の辻の決闘」とはいわゆる荒木又右衛門が36人斬りをしたといわれる決闘のこと。日本3大仇討ちの1つです。
鍵屋の辻は、奈良大坂方面からの上野の城下町の入口。昔の城下町は防衛上、入口が鍵の手に曲がっていますが、鍵屋の辻の周辺も街道がそのようにクランク状態になっています。
現在の鍵屋の辻のあたりはこんな感じ。何の変哲も無い通りですがこんなところでいきなり何十人も斬り合いが始まったら驚くわな。
近くに、鍵屋の辻の決闘の資料を集めた「伊賀越資料館」があるので、寄ってみました。
なかには、鍵屋の辻の決闘を描いた浮世絵や荒木又右衛門など関係者の遺品などの資料が展示されていました。
なかには、鍵屋の辻の事件のあらましが。
事件の発端は寛永7年(1630)、備前岡山の藩士、河合又五郎が同僚の渡辺源太夫を殺害し、行方をくらましたことから始まります。時に又五郎19歳。源太夫17歳。
藩主の池田忠雄候は烈火の如く怒り、行方を探させましたが又五郎は親戚を頼って江戸の旗本に匿われていることが判明。池田候は又五郎の引渡しを求めましたが旗本側はこれを拒否。争いは旗本と大名の抗争に発展。
そうこうしているうちに、忠雄候は無念のうちに病没。池田家も備前から鳥取へ国替えになります。
こうなりゃ池田もだまっちゃいない。藩は亡き殿のご無念を晴らせと源太夫の兄、渡辺数馬に仇討ちを命じます。数馬も腕の立つ助っ人がほしい。そこで大和郡山藩につかえる姉婿、荒木又右衛門に助太刀を頼みました。いわば又右衛門はこの騒動に巻き込まれちゃったわけで、このおかげで郡山藩を致仕、つまり辞めなければならなくなりました。気の毒と言うか、いい迷惑。
数馬と又右衛門は又五郎探しの旅に出ます。
諸国を逃げ回っていた又五郎は武芸の達人、河合甚左衛門、桜井半兵衛に守られて江戸に下ろうと伊賀路を抜けることに。その情報つかんだ又右衛門は上野の城下の西に入口、鍵屋の辻にある茶屋萬屋で待ち受けることに。
かくして、寛永11年11月7日早朝。又五郎一行11人は鍵屋の辻に差し掛かり、そこを数馬、又右衛門ら主従4人がバラバラバラと行く手をさえぎり、いきなり斬り合いが始まりました。
又右衛門は河合甚左衛門、桜井半兵衛を討ち取りましたが(又右衛門の36人斬りはウソ。話が大きくなって伝わったらしい。実際は2人か3人ほどだったとか)、数馬と又五郎のサシの勝負はついていません。なにせ長時間にわたって戦っているため両者疲労困憊し無様な有様だったとか(本人たちは大まじめ)。
そこに又右衛門がかけつけ数馬を叱咤しました。お断りしておきますが又右衛門は叱咤するだけです。数馬に変わって又五郎を討ち取ったりはしない。仇討ちは本人がしなくては意味がない。
怖い、腕の立つお義兄さんに励まされ、数馬はなんとか又五郎を討ち取り、見事本懐を果たしました。めでたし、めでたし。
資料館を出て、目の前に「数馬茶屋」という江戸時代の雰囲気を残すいい感じの茶店があるので、寄ってみました。
暑い日なので冷たいものをお願いしましたところ、冷えた甘酒があるとのこと。美味しそうなので1つお願いしました。
なかには年配のお客さんが何人かおられました。だいたいこういうマニアックな場所にくるのはよっぽどの歴史マニア。茶店のおばちゃんとの話はもっぱら鍵屋の辻の決闘の話。
甘酒をすすりながら聞くとはなしに聞いていましたが、渡辺、河合両家が昭和になって会って和解した話(だったかな、このへんうろ覚え)や、又右衛門が決闘のあと鳥取で仕官したもののすぐに病死した話などしていました。
そう、この又右衛門の急死はわたしも不思議に思っていたんですよ。かねがね。(ホンマかいな)
だって又右衛門は剣の達人。体は人一倍頑健だったはずです。たしかに又右衛門は決闘のあと一応取調べと、罪人扱いで3年間閉居ぐらし。でもべつに過酷に取り扱われたわけでもなく、そのあと鳥取に行って、その直後コロっと死んじゃうのは不思議な話です。余りにも唐突な死なので毒殺説まであります。
しかし、茶店のおばちゃんは、「又五郎が討ち取られたままでは面目を失った旗本との軋轢が絶えないので、鳥取藩が又右衛門を死んだことにして匿ったんじゃないのかという説があります」と教えてくれた。たしかにありそう。いやありえない話じゃない。
でもこうやって知らない者どうしが歴史談義に花を咲かせる。いいもんです。
さて、日が暮れてきますので帰路につきます。
しかし、今回の旅ですが、目的地(津)がしょぼくって、おまけ(上野)が美味しかったという、損したのか得したのかよくわからない旅でした。
追伸
帰ってきてから津に行った話を色々な人に話をしましたが、みんな口々に「津ってわざわざいくほど何かあるの」というお答え。
「はい、何もありませんでした」
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