京都をゆく

 京都というと、千年の古都。
それだけに見所が多いですが、時代を絞って歩くのが賢い歩き方。

 今回は、来年の大河ドラマが新撰組ということで、「幕末に絞って主に歩いてみよう」と言うのが今回の京都行きの目的です。
 
 幸い、懇意にしているFさんを誘っての「京都幕末旅行」。しかし日帰りという強行軍。どれだけ回れるでしょうか?

 朝、5時に松本出発。中津川まで節約のため国道19号線をひたすら走ります。そうすれば高速料金がかなり軽減されるんですよね。それに早朝ですからほとんどノンスットプ。結構早く抜けられます。でも制限速度は守りましょう。(一応フォロー)
 中津川から高速に乗って一路京都東インターまで。

 さて、京都について1番先の目的地は・・・・。それは金閣寺です。
 金閣寺って別に幕末と関係ないじゃんって。確かに関係ございません。でもFさんが「折角京都にきたんだから見に行きたい」って言うし、ぼくも金閣寺は修学旅行以来なので実は行ってみたかったの。それじゃ、行きましょう金閣寺。

ご存知の通り、金閣寺っていうのは通称です。
正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)。
室町3代将軍足利義満の別荘だったところを、義満の死後菩提を弔うためにお寺にしたそうで、義満時代の建築物は「金閣」のみだそうです。
でも、金閣も昭和の時代になって放火されたので、実際義満時代の物はなにも無いわけです。

しかし、我々が来たこの日は外国のお客さんが多かったですね。
金閣寺はやっぱり国際的な観光地なんですねえ。
金閣寺は子供のときからアニメの「一休さん」で知っているし、写真なんかでもお馴染みなところなんですが、やっぱり実物はいいですねえ。


 さて、金閣寺の広い庭園を見終わったあとは、車に乗って幕末ツアーです。
 手始めは、幕末の政治の中心になった、京都御所。
 でも、京都御所の内部は年に2回の春と秋の公開期間を除いては入れません。しかも、その期間中も前もって宮内庁に予約のはがきを送らないと入れなのだとか。さすが御所だけに厳しい制約がつきます。
 実は私の母が、学生のころ修学旅行で御所に入ったことがあるのだそうで、私に語るには、「御所は玉砂利で歩きにくくて、人形が置いてあって、私語をしたら怒られた」んだそうです。建物の印象は聞きませんでしたねえ。
 まあ御所はともかく、御所の周りの京都御苑は開放されているので、歩き放題。今回はここを歩くことにしました。

 中立売御門をくぐると、有料駐車場があり、そこに車を止めます。
 そこから、すぐのところに「蛤御門」。そう、あの幕府軍と長州軍が激突した「蛤御門の変」の蛤御門です。

京都の政界を動かしていた長州藩が薩摩、会津藩によって京都政界を追放されたいわゆる「8月18日の政変」があったのが、文久3年のこと。
その翌年の元治元年、失地回復を狙う長州藩は藩兵を率いて上洛、御所周辺で会津、薩摩を中心とする幕府軍と激突します。特に、戦闘が激しかったのがこの蛤御門でした。

激戦の跡を物語るように、この蛤御門には夥しい弾痕が今も残っています。
こういうのを実際に見ると、歴史の証人と対面するようでゾクゾクしますね。Fさんも関心しきりでした。
戦況は、当初、長州優位だったそうですが、薩摩藩兵の奮戦により、長州軍は潰滅。
長州藩士、来島又兵衛は戦死。久坂玄瑞は自刃。久留米の真木和泉らは退却中の山崎天王山で自刃しました。この戦いにより長州藩は一時窮地に陥ることになりのですが・・・。
いずれにしても、この戦いで京都は焼け野原になったそうです。

  この蛤御門から京都御所へ向かいます。

しかし、さすが御所。塀が長いこと長いこと。
どこまで続くのでしょうか。
実は、この場所から御所をはさんでちょうど反対の「猿が辻」は幕末の動乱時に公卿の姉小路公知が暗殺された場所。でもこの塀を見て行く気が失せました。「猿が辻」はまた今度、今度。
京都御所の正面、建礼門です。
優美な造りです。
写真じゃわかりにくいんですが、結構デカイ。
それに、彫刻がすばらしい。
しばらくFさんと見ていました。

 広い、京都御苑を歩き回った跡は、三条の方へ。
 三条近辺は、幕末動乱期の遺蹟が多いところです。

 京都市役所の反対側。京都ホテルオークラは長州藩の藩邸があった場所。

現在、長州藩邸を偲ばせるものはなにも残っていません。
写真のように、長州藩の中心人物だった桂小五郎、のちの木戸孝允の銅像があるのみです。
この銅像も今回、取材(有名人銅像拝見の)の対象になっていましたから、写真に収めて一安心。
詳しくは本編を見てください。

 さて、地図によるとこの近所に本能寺がある。
 Fさんに、「近くに本能寺があるみたいなんだけど、見てゆく?」と提案。Fさんも「寄って行こう」と快いご返事。早速我々は本能寺へと入ります。

本能寺といえば、言わずとしれた「本能寺の変」の舞台。
ただし、現在の本能寺は「本能寺の変」当時の場所から移転して建てられています。
本能寺は法華宗本門流の本山。信長上洛時には専用宿舎として使われたそうです。
本能寺の本堂の裏には信長の墓があります。
信長の遺骸は本能寺の炎上とともに焼けてしまったためありません。
信長の次男、信雄がこの墓を建てた時、遺骸のかわりに、信長の太刀をお墓におさめたそうです。

本堂の建物は大変大きなものですが、やはり街中ということで寺域がやや手狭に感じました。でも、歴史ファンの方々でしょうか、我々の他にもこのお寺を訪れる人が結構いらっしゃいました。

 ところで、本能寺の変というと、信長が槍や弓を使った大立ち回りをしたように、小説でもドラマ、漫画にも描かれてきましたが、最近の研究でそのような光景は無かったのではないかという説が浮上しました。
 その根拠となったのは「本城惣右衛門覚書」にある記述。
 この覚書を残した、本城惣右衛門は本能寺の変に明智方の兵士として参加。その時の様子を書き残したがこの覚書です。

 さて、この「本城惣右衛門覚書」によると、明智軍が本能寺に乱入時には信長側の兵士どころかねずみ一匹見あたらない状態。明智軍は楽々と本能寺内に侵入したと、記述されています。
 更に、興味深いことに、このとき自分たちはだれを殺しに本能寺に来たのかもわからず、ここが本能寺であることすらわからなかったようです。
 このことは、他の兵士の証言にもあり、かなり信憑性の高い記述であると思います。
 今までの、信長の派手な立ち回りがなく、抵抗も無いまま信長が死んだとすれば、今までの本能寺に変のイメージが大きく変わるだけに「本城惣右衛門覚書」は大変興味深いものがあります。

さて、本能寺を出て河原町通りを南へと向かいます。

 この人通りの多い通りにひっそりあるのが「坂本竜馬中岡慎太郎遭難之地」の石碑。

ここが、かつて醤油屋近江屋があった場所で、竜馬が中岡慎太郎とともに暗殺された場所です。
しかし、ここは歴史ファンなら良く知っているように現在は旅行代理店になっており、当時を思わせるものはなにもありません。
なにしろ、人の通りが激しいので、人通りが途切れたチャンスを狙って石碑の写真を撮り、そそくさと引き上げました。

京都をゆく 第2部へつづく



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