山内一豊
やまのうち かずとよ
1546〜1605
略歴:
 戦国期の武将。織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕える。小田原の役の後、遠州掛川6万石。関ヶ原合戦では徳川家康につき、土佐24万石を得る。妻の内助の功により駿馬を買った話は有名。

 山内一豊といえば、その奥方の内助の功の話で有名である。
 彼がまだ織田家の侍であったころ、馬を買う金がなかった。困っているのを見かねた奥方が、手鏡の中から、黄金10枚をとりだし、
「これでお買いなさい」
と一豊に与え、馬を買うことができたという。この「美談」で一豊は織田の家中で一種の名士となった。
 山内一豊は、豪傑というわけでもなく、名将智将というわけでもない。強いて言えば、ひどく生真面目で律義だというのが取柄の人物であった。
 律義といえば婦人にも律義であった。実子がいない(女の子がいたが地震で死亡)にもかかわらず、当時の武将としては稀有なことに妻のほかに側室を持たなかった。妻を愛していたということもあっただろうが、若い時から苦労を共にしてきた妻に対して義理を欠くと思ったのであろう。
 織田、豊臣と2代に仕え、数多くの戦場を駆け巡った一豊が得た所領は遠州掛川6万石。その彼が一躍、土佐24万石の大大名になるのは関ヶ原合戦の後のこと。54才である。
 関ヶ原合戦直前、徳川家康が石田三成の挙兵を聞いたのは、会津の上杉征伐の途上、下野(しもつけ=栃木県)小山の陣においてであった。一豊もその陣にいる。家康はここに豊臣恩顧の諸将を集め、石田につくか徳川につくかを協議させた。世に言う「小山会議」である。
 この会議の席上、「徳川につく」と最初に表明したのは福島正則である。ついで一豊が進み出て、
「お味方つかまつる上は、居城掛川城を兵糧ごと内府(家康)に差し上げ、拙者は人数ことごとく引き連れて戦場に臨む所存でござる」
と、思い切ったことを表明した。これによって家康の進路にあたる東海道に城をもつ大名は一豊にならって城も領地も家康に差し出さねばならなくなり、家康に加担することに多少なりともためらっていた一座の大名もことごとく家康に味方せざるをえなくなった。そしてこれが関ヶ原における家康勝利の要因になったのである。
 関ヶ原の決戦において、一豊は後方の予備隊におかれ、なんの武功もなかったが、戦後の論功行賞において、家康は彼を掛川6万石から大抜擢し、一躍、土佐24万石に封じた。
「かの、対馬守(一豊)になんの武功がござるや」と言う左右の幕僚の意見もあったが、家康は、
 「戦場においての槍働きなどだれでもできる。山内対馬守の小山での一言こそ関ヶ原の勝利を作ったのだ」
といってとりあわなかった。と、すれば一言で土佐一国を得た、と言っていい。変動期でこそ起こりうる話であろう。
 しかもこの話、付録がある。
 じつは、城も領地もすべて差し出すという凄まじい例の案は一豊の独創ではなかった。堀尾忠氏という一豊と親しい大名がいたのだが、その堀尾と小山会議に出る直前に徳川と石田のどちらにつくか相談した。堀尾は一豊に徳川に付くことを話し、
「徳川殿につくと決めた以上は、家運を開く機会ゆえ、拙者の城も領地も徳川殿に差し出すつもりでござる」
と、秘策というべき腹案を話した。その秘策を堀尾が発言する前に一豊が発言したのである。
 一豊、一世一代の発言も、実は他人の案の寸借だったと言うのも、何かこの人らしいエピソードである。
 土佐という国は、関ヶ原合戦当時、長宗我部(ちょうそかべ)氏が治めていた。当主の長宗我部盛親は負けた石田三成についたので、徳川家康に土佐の領土を取り上げられることになった。残った、長宗我部の家臣たちは土佐の国内に浪人として残った。そこへ、「進駐軍」として乗り込んできたのが、山内一豊である。
 6万石から24万石に、領地が4倍に増えたわけだから、当然、家臣も増やさなければならない。このような場合、家臣の増員の何割かはは現地でおこなう。そうしなければ浪人になった侍たちが不満をもって反乱をおこす恐れがあるからだ。山内家もそのようにすべきだった。
 ところが、山内家は家臣の増員を京都、大坂で行い、土佐へ乗り込んだ。当然、土佐では浪人になった長宗我部侍が反乱を起こした。
 土佐に入国してからの一豊の生涯は、この長宗我部侍の反乱を鎮圧し、弾圧したりするのに費やされた。このようになったのも、いきなり大国を与えられたが故に招いた不手際が原因であった。
 一豊の死後だが、山内家では他藩にない制度をつくる。郷士制度である。旧長宗我部侍への懐柔策が目的で、彼らを正式に郷士とし、田の作り取りを認め、武士の待遇をすることにした。これでようやく反乱が収まった。しかし、身分差別が手厳しく、同じ藩士でも高知城下に住む上士は、郷士を百姓同然にあつかい、その差別を藩は占領政策として200数十年奨励してきた。
 人種が違うとまでいっていい。上士と郷士とは明治に至るまで、顔かたちが異なっていたと言われる。このあたり、アメリカ開拓史の白人とインディアンとの関係に酷似している。
 徳川300年の間、押さえこまれていた郷士=長宗我部侍が群がるようにして起ちあがったのは、幕末になってからである。この階級から、坂本竜馬、武市半平太、中岡慎太郎といった人々が出て、幕末の風雲に飛び込み、ある者は、山内侍に弾圧され、ある者は脱藩しながら倒幕運動に参加し、やがて、薩摩、長州とならんで倒幕の原動力となった。
 江戸幕府が、土佐の郷士階級出身の坂本竜馬が画策した大政奉還によって終焉したのは慶応3年(1867)、関ヶ原合戦から267年後のことである。長宗我部侍たちの関ヶ原は267年たってようやく終わったといえる。
 関ヶ原の合戦は徳川幕府を生んだが、山内一豊の小山会議での発言が関ヶ原における徳川の勝利の一因となり、一豊は土佐の領主になった。そして山内家がつくった郷士階級出身の坂本竜馬がこんどは徳川幕府を終わらせた。このことを考えると、何やら歴史の因果というか、巡り合わせのようなものを感じる。
 そんなことを言いたくて、今回、山内一豊をとりあげた。
 山内一豊とその妻、千代を描いた小説に司馬遼太郎『功名が辻』がある。戦国期の侍をいきいきと描いた好著である。一読をおすすめする。



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