築山殿
つきやまどの
1542〜1579
略歴:
名は瀬名姫。徳川家康の正室。今川義元の姪。
父は今川義元の一族、関口親永。母は今川義元の妹にあたる。
今川氏の人質であった家康と結婚、一子信康をもうける。
家康独立後、武田勝頼と内通の疑いで、織田信長の命により、夫の手で信康とともに殺された。
墓は静岡県浜松市の西来院。

[虚像の築山殿]

 古来、築山殿ほど悪く言われた女はいない。
 伝説ではこうだ。
 
○ 家康と別居状態にあった築山殿は唐人の鍼医減敬と内通した。

○ その減敬は実は武田の間者で、築山殿を篭絡し、築山殿を武田方へ内通させた。

○ 減敬の誘いに乗った築山殿は我が子信康可愛さに武田方への内通を確約し、信康の同意を得ることなく、かってに信康を大将に謀反の計画を進めた。

○ 一方、築山殿は嫉妬深い女であった。築山殿の侍女であったおまんという女が家康の目に止まって手がつき、身ごもった。この事を知った築山殿は、木におまんを縛り付け、裸にして散々に打ち据え、そのままにした。

○ 信康の正室、五徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる築山殿とすれば仇のかたわれと思った。そこで嫁の五徳につらくあたった。さらに、五徳姫を調伏の呪詛を行った。


等々が伝説上の築山殿の所業だ。
 山岡荘八の「徳川家康」、大仏次郎の「築山殿始末」でもこの伝説に基づいて築山殿を描いており、世間の築山殿像は決定的になった。

 しかし、ここまで悪辣な悪女となると「ホンマかいな」と疑いたくなる。実際このような築山殿非難の文献は江戸時代の中期以降から見られるようになったと言われる。

 ここに「三河物語」という文献がある。
 これは、有名な大久保彦左衛門が書いた記録であり、江戸時代初期に書かれた。大久保家門外不出の書といわれ明治時代になって公開された。「徳川家の先祖は念仏坊主だった」とその出自の秘密まで書かれている事から今日の暴露本めいた面があり、信憑性が高い。
 その「三河物語」では、信康の正室五徳姫が、父の織田信長に訴え、信長はそれを口実に信康殺害を命じたとある。
 しかし、築山殿への批判は一切ない。
 もし、現在伝えられるところの築山殿の所業が本当であったとするならば、大久保彦左衛門と、「三河物語」の性格上、辛辣に書くはずであろうが一切記載がない。

家康の長男、徳川信康


 さらに特筆すべきは、築山殿が殺害された後、築山殿の侍女の一人が殉死の入水をしている事実である。侍女の父は家康の政治経済の上級幕僚、伊奈忠基である。娘は殉死による一家にあたえる不利を乗り越えて築山殿の殺害に殉じたと思われる。
 このことを考えても、従来言われるような人物であれば、このようなリスクをおかしてまで侍女が殉死したりするであろうか。
 
 さらに言えば、先にあげた昭和になって作られた2つの著名作品の作者はそれぞれ「これはフィクションである」と証言している。

 
 
 ここまで考えると築山殿悪女説は全くの虚構にすぎないのではないかと思えてならない。この築山殿の虚像は徳川250年の間に、悪女の手本のように作られた。
 これは、徳川幕府の始祖、家康を幕府が神聖化するあまり、家康の長男殺害というスキャンダラスな事件の要因を築山殿におしつけ、スケープゴートに仕立てたためであろう。

 
[信康、築山殿殺害の真実]
 では、築山殿が悪人ではなかったとしたら、なぜ信康は切腹させられ、築山殿は殺害させられなければならないのか。最近様々な説が出ているが、その中でも代表的な説を取り上げてみると。

○ 酒井忠次(さかいただつぐ)陰謀説
この説は、司馬遼太郎氏がその著書『覇王の家』で取り上げている。
酒井忠次は徳川の最重臣。家康とも親戚筋にあたる。
しかし、信康と忠次は年来仲が悪く、お互い疎ましく思っていた。
信長が五徳姫の書状の真偽を問いただした相手は酒井忠次であった。
忠次は、信康を庇うどころか、「それらの申し上いちいちごもっとも」
と答えている。
忠次にすれば、信康が徳川の家督を継いだとき、酒井の家が危うくなることを考えており、信長からのこの質問は信康を葬る千載一遇の好機であると考えた。
このことにより、忠次は信長の命令によって信康を葬ることに成功した。
以上が酒井忠次陰謀説の骨子である。この説の根拠として、後年、家康が関東に入ったとき、徳川四天王のうち井伊直政12万石。榊原・本多がそれぞれ10万石なのに対し酒井家はわずか3万石しか与えられなかったというのが背景にある。

酒井忠次像


○ 信長陰謀説
信康は武勇に優れた優秀な武将であった。それにくらべて信長の子供は信康に劣っていた。将来を危惧した信長は、信康を抹殺し、あわせて徳川の力を削ごうとした。
このため、理由をもうけて信康を殺させた。

○ 岡崎衆クーデター説
信康の家臣たち(岡崎衆)が、家康を排除して信康を当主にしようと企んだと言う説。
それを察知した家康が先手をうって、信康と障害になるとおもわれる築山殿を殺害した。この説によると酒井忠次は家康の命をうけて信長に、五徳姫の夫である信康を殺す許可を取りに行ったと言う事になる。
この説の生まれた背景に、家康が浜松に移ったことによって従来の譜代三河衆より、遠江の新参の家来を取り立てたことにより、その動きを面白く思わぬ岡崎衆がクーデターを画策したというのだが。



どの説も一長一短あって決定的とはいえない。やはり真相は闇のなかと言ったところか。
 しかしながら、家康は後年まで信康を惜しんだらしく、しばしば愚痴めいたことをいっている。
 はるかな後年。関ケ原合戦の前夜も家康は「せがれ(信康)が生きていればこの年で合戦にでることもあるまいに」とぼやいた。

 いずれにしても家康の長男殺害というスキャンダラスな事件のスケープゴートに仕立てられた悲劇の女性築山殿。彼女の復権運動が望まれてならない。



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