天海
てんかい
1536?〜1643
略歴:
上野寛永寺の開基。慈眼大師。一説に会津生まれとも。慶長13年家康に用いられ家康の参謀として主に宗教政策に助言する。家康の神号を東照大権現に定めたのもこの人。一説には享年108歳とも

明智光秀=天海説を追う

 山崎の合戦で敗れ、逃げる途中、京都山科小来栖(おぐるす)の竹薮で土民に殺されたとされる明智光秀は実は生きていたという説がある。
 この説によると生きていた光秀は身を変えて家康の参謀、天海僧正になったと言うのである。
 光秀=天海説を裏付けるキーパーソンが存在する。
3代将軍徳川家光の乳母、春日局(かすがのつぼね)である。
 春日局は実は光秀の重臣、斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘である。斎藤利三はあの本能寺の変の現場指揮官だった。
 家光の母はお江の方。光秀や斎藤に殺された信長の姪にあたる。なぜわざわざ行きがかりのある女性を家康は家光の乳母にしたのであろうか。
 実は、春日局が家光の乳母になった経緯はよく分からないのだ。
 話では家光誕生当時、京都にいた春日局は乳母の公募に応じたということになっているが、いやしくも将軍家の世継ぎの乳母を公募などするであろうか。普通このような場合は譜代の家臣に縁のある者が取り立てられてなるものである。徳川家に縁もない春日局がなぜ家光の乳母になったのか不思議である。
 しかし、もし春日局の登用が天海(=明智光秀)の推挙であったとしたら。春日局の登用の謎は解消する。家康の政治顧問として身近に仕えていた天海=光秀が自分の家臣の娘を乳母に推挙したとしてもおかしくない。しかし、この実態が明らかになれば天海=光秀が明らかになる。その事実を隠すために公募という話が伝わったのではないかと思う。
 ここに天海−春日局−家光の結びつきをしめす建物がある。
 埼玉県川越の喜多院は天海ゆかりの寺だが、この寺に家光の命令で江戸城の大奥の建物が移された。中には「家光誕生の間」、「春日局化粧の間」が現在でもこの寺に残る。

光秀、天海への変身

 明智光秀=天海であったとしたら。光秀はどのようにした天海に変身したのであろうか。
 山崎の合戦で敗れた光秀は小来栖で討ち死にしたと見せて密かに落ち延びたと思われる。
 光秀討ち死にの話を詳しく見てみると、落武者狩の竹槍をうけた光秀は、その重傷に耐えかねて自害。光秀の首は判別できぬように顔の表皮を剥がして泥田に埋めたといわれるが、これらはいかにもうそ臭い。だいたい自分の主君の首を泥田に隠して逃げる家臣などいるであろうか。
 実際は逃げおおせるため、家臣の死体に自分の鎧をつけ、顔の表皮を剥いで判別できないようにして秀吉のもとに届けたのではないだろうか。
 宣教師ルイス・フロイスは光秀に対して、「(光秀は)己を偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み計略と策謀の達人であった」と書き残している。
 生き延びた光秀は比叡山へ逃げ込み、天台宗の僧になったと言われる。(比叡山延暦寺は天台宗の総本山。天海は天台宗の僧である)光秀と比叡山の結びつきを示すものがある。
 比叡山にある某寺の庭に不思議な石灯籠がある。その石灯籠には「奉寄進 願主光秀 慶長20年2月17日」と刻まれている。
 慶長20年といえば光秀が死んだとされる天正10年から33年後のこと、大坂夏の陣の年である。大坂攻撃の直前、かねて縁のあった比叡山の寺に石灯籠を寄進し、秀吉によって滅ぼされた明智一族の菩提を弔ったとしてもおかしくない。
 天海と家康の出会いは定かではないが、恐らく家康が江戸に入る前後かと思われる。
 家康は天海に会って、「天海に会うのが遅すぎた」と言って、その後自分の政治顧問に登用するが、初対面の人間をすぐに重用する訳がない。しかし、天海が光秀であったら。光秀と面識があり、その能力を知っていたからこそ家康はすぐに重用しようというものだ。
 ここで、一つの疑問が湧く。
 なぜ、天海になりおおせた光秀が家康を頼ったか?
 ここで考えられるのは本能寺の変の黒幕が家康ではないかということである。
 家康黒幕説ならば、山崎の合戦で敗れた光秀が家康を頼ってもおかしくない。実際、天海=光秀説を取る人は、本能寺の変を家康黒幕説を取っている。
 しかし、私は本能寺の変を光秀単独説を取っている。天海が家康に会ったのは、この当時の実力者のなかで家康が自分を受け入れてくれると見たためであろう。と、いうのも旧織田家の大名は頼れないし、秀吉直属の大名もだめだ。となれば信長の家臣ではなく同盟関係にあり、かねて面識のあった家康しか頼るところがなかったと考えるのが普通であろう。
 家康に仕えた天海は、家康を政治的宗教的に補佐する。
 大坂の陣に豊臣家を追い詰めたのも天海の策があったと言われるし、江戸の町のアウトラインを作ったのも天海といわれている。江戸城の鬼門の方向に魔除けとして上野寛永寺をつくったのも天海だ。
 家康の死後、神号を東照大権現にさだめたのも天海である。
 天海は日光東照宮の造営にも関わった。そして、その近くを「明智平」と命名した。
 家康、秀忠、家光の3代に仕えた天海は寛永20年(1643)に死ぬ。一説に享年108歳ともいわれる。
 天海は前歴があいまいで、自ら語ろうとはしなかったという。
 光秀の生年は享禄元年(1528)といわれ、光秀が天海とすると、その享年は大体一致する。
 ここまで光秀=天海説を紹介してきたが私自身はかなり信憑性が高いと見ている。江戸幕府草創期のメンバー天海と春日局の謎を考えたとき、天海=光秀説をとればいちいち合点がゆく。
 天海=光秀説を追ったテレビ番組があったが、その中で天海と光秀の筆跡鑑定を行っていた。結果は完全には同一人物とは言い切れないが、別人であるとも言い切れないとのことである。



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