シリーズ提督の決断@
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

山本五十六
やまもと いそろく
1884〜1943
略歴:
新潟県出身 海軍大将 元帥 

 山本五十六ほど日本海軍史上、東郷平八郎とならんで有名な提督はいないであろう。なにしろ成功不可能と思われた真珠湾攻撃を企画立案、そしてそれを成功させながら、その最期は連合艦隊司令長官という極官でありながら飛行機で交戦中に戦死するという悲運の提督であり、「悲運の名将」を好む日本人には格好の人物であった。
 確かに山本五十六は誠実な人柄と部下に対しての思いやりがあった人物であったことは間違いない。また、海軍次官時代に終始、日独伊三国軍事同盟に命懸けで反対した見識と信念は軍政家として高く評価してよい。
 しかし、山本の作戦指導においては、ハワイの第二次攻撃問題、準備不足のミッドウェー作戦の強行等、批判される面が多い。まあ、これは山本個人と言うより山本司令部全体の問題として捉えるべきであろうが。
 山本は海軍次官時代、三国同盟推進者に「アメリカの工場の煙突の数を数えてきたまえ」と口癖のように言っていた。アメリカと戦争になれば国力の差で必ず負けるというのが山本の持論である。その山本が中央を去り、連合艦隊司令長官に就任後に日本は日独伊三国軍事同盟を締結。戦争への道を辿ることになる。
 歴史は皮肉である。日米戦うべからずという信念をもつ山本は、実際に戦う連合艦隊司令長官として必勝の策をたてねばならなかった。
 近衛文麿首相から山本に日米開戦後の見通しを聞いたことがある。この時、山本は、
 「是非やれと言われれば、はじめの半年から一年はずいぶん暴れてご覧にいれます。しかし、2年3年となってはまったく確信はもてません」
 と、答えた。これは偽りのない山本の見通しであったであろう。
 長期戦は不利と考えた山本は、開戦直後にアメリカ艦隊の本拠地ハワイ真珠湾を攻撃し、敵主力艦隊を撃滅。敵と味方の戦力のバランスを崩し、早期講和にもちこむ。山本のこの考えから真珠湾作戦を立案した。当然このように敵本陣にいきなり切り込むような博打作戦に軍令部からは猛反対されたが、山本の「この作戦が認められなければ司令長官をやめる」という言葉で、軍令部は真珠湾作戦を承認した。博打作戦といえば山本は博打の名人であったと伝えられている。このころの海軍の報道統制のなかに「連合艦隊司令長官が勝負事に巧みなこと」という項目があったと言われているから相当な名人であったであろう。そう考えると真珠湾作戦は博打打ちの勝負師、山本らしい作戦と言える。
 昭和16年12月8日。機動部隊の奇襲により真珠湾攻撃は成功。山本はその報告を瀬戸内海の柱島で受ける。幕僚は味方の被害が少ないことから再攻撃の命令を出すべきだと進言するが、「ここは現場の判断に任せよう」と言って取り合わなかった。
 真珠湾作戦は山本が「桶狭間とひよどり越えと川中島の戦いを合わせて行わなくては勝てない」と非情な決心のもとに反対する軍令部を説得して強行した作戦であった。それにも関わらず、ハワイの軍事施設を徹底的に破壊することを指示せず、また討ち漏らした敵空母の攻撃を指示するわけでもなく、これでは折角の作戦も完全に成功したとは言えない。真珠湾攻撃を実際に行う機動部隊の南雲忠一中将とその司令部とどれだけ意思統一されていたのであろうか。疑いたくなる。そして、そのツケを半年後支払うことになる。
 真珠湾から半年後の17年5月、山本はミッドウェー作戦を立案する。山本はミッドウェーを奇襲攻撃しそれに驚いて出てきたアメリカ機動部隊を撃滅するのが目的であった。しかし、軍令部との折衝の過程でミッドウェー島の攻略が主目的になり、山本の狙いである敵機動部隊の撃滅は2次目的になった。
 山本は作戦の趣旨を訂正せず、また実施部隊に目的を徹底させることなく南雲機動部隊をミッドウェーに送り出した。そして結果は、この目的の不明確さが原因となって南雲司令部をミッドウェーの攻略にこだわらせ、勝つべき海戦に完敗。空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4隻と300機の航空機と貴重な熟練パイロットを失い、太平洋戦争の流れを変えてしまった。
 山本五十六という提督は、先見性、決断力、独創力、人心掌握等たしかに人並み優れていた。しかし、肝心の組織の意思統一と言う点で非難せざるをえない。これは山本五十六という提督の限界であったのであろう。
 昭和18年。戦争は長期戦の様相を見せ、山本は南方の前線ラバウルに進出。陣頭指揮をとる。このソロモンの戦いは消耗戦になり、山本も切り死を覚悟していた。郷里の友人にあてた手紙にも、「あと百日の間の余命は全部すりへらす覚悟に御座候」との手紙を出している。
 運命の4月18日、山本は最前線の視察のため僅かな護衛機に守られてラバウルを出発したが、暗号解読により山本の行動を察知していたアメリカ軍により待ち伏せされ交戦。ブーゲンビル島の上空で山本長官機は撃墜された。山本五十六戦死。
 戦死した山本は元帥に叙され、国葬された。 



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