シリーズ提督の決断B
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

山口多聞
やまぐち たもん
1892〜1942
略歴:
島根県出身。海兵40期。卒業成績144人中2番で優等。海軍大学校も優等卒。
海軍少将。ミッドウェー海戦で戦死。戦死後中将。

 歴史にもし=Ifがゆるされたとしたら。歴史ファンにとって、楽しい想像を駆り立てられる。
 例えば、「武田信玄が死なないで信長と決戦をしていたら」とか、「信長が本能寺の変で死ななかったら」、「小早川秀秋が関ケ原の合戦で裏切らなかったら」、「坂本竜馬が暗殺されなかったら」と言った類だ。
 その中でよく言われるのが、「もし山口多聞少将が、機動部隊を指揮していたら」と言うことだ。
 史実では、機動部隊の指揮官は南雲忠一中将であり、山口多聞は機動部隊指揮下の、第二航空戦隊の指揮官であった。当然、南雲の指揮下に入っていた。
 しかし、山口は海軍部内でも「航空気ちがい」とあだ名されるほどの航空用兵論者で、すでに大正中期から、凧を継ぎ足したような草創期のヒコーキで空を翔けていた。航空戦のスペシャリストと言っていい。
 しかし、一方の南雲中将は、水雷畑の出身で「水雷の権威」と言われるほどであったが、航空戦にはズブの素人。いきなり航空艦隊の総帥に任じられたのは、年功序列を重んじる海軍の平時の人事の発想に他ならなかった。
 航空に素人の南雲が上官で、プロの山口がその指揮下に甘んじる。このシチュエーションが冒頭の「もし、山口多聞少将が機動部隊を指揮していたら」というIfにつながるのである。
 戦史を追ってゆくと、山口多聞は、闘争心、判断力、決断力ともに他の提督に卓越した名将であったと言わざるをえない。
 真珠湾攻撃は2波の攻撃で、アメリカ艦船18隻、飛行機311機、を撃破したが、米空母は出港していたために討ち漏らした形となり、また、基地施設と重油タンクはまったくの手つかずの状態であった。
 しかし、南雲長官は大戦果を得たことで、3次、4次の攻撃を行わず、かといって討ち漏らした米空母を求めることもなく、引き上げている。
 よく、言われることだが、「もし、日本軍が基地施設と、重油タンクを攻撃したら米海軍の立ち直りはずっと遅れたであろう」と言われる。
 そもそも、真珠湾攻撃の立案者、山本五十六の本音は、開戦とともに、米機動部隊を撃滅させるか、ハワイの港湾施設を破壊してアメリカ海軍に後退を強いるかの、いずれかであった。その意図を知る山口は再度の攻撃を具申するが、艦隊を安全に日本に帰そうとする南雲司令部はこれを無視。山口は空しく帰らざるをえなかった。
 しかし、ここでも冒頭の「もし、山口多聞少将が機動部隊を指揮していたら」と言うことが想起させられる。もし、山口が機動部隊を指揮していたら、ハワイの軍事施設を徹底的に叩くか、米空母艦隊を求めて決戦するか。いずれにしても、その後の太平洋の戦局を大きく変えたことは間違いない。
 開戦から半年後。17年6月。太平洋戦争の「関ケ原」といわれるミッドウェー海戦が起きる。
 敵の機動部隊が接近している情報を得た山口は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言した。
この時、各艦の攻撃機はミッドウェーを空襲すべく陸用爆弾を抱いて装備していた。船は当然、魚雷でなくては沈まない。しかし、山口は攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間が惜しかった。まず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと考えた。
 しかし、南雲司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせた。
 その結果、赤城、加賀、蒼龍の3空母が敵機の攻撃を受けてあっという間に大火災を起こし戦闘不能になった。
 ここでも、冒頭のIfが思いおこされる。
 もし、山口が機動部隊の司令長官であったら。
 当然、速やかに艦載機を発進させていたであろう。その結果、こちらの損害も大きかったであろうが、アメリカ側も大打撃を受けていたに違いなく、日本海軍の空母が一方的に沈むという事態は避けられたに違いない。
 ミッドウェー海戦でもし、アメリカ機動部隊が大打撃を受けていたらどうなったか。
 「ミッドウェー海戦で太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。そのため、ヨーロッパや、北アフリカでイギリスを助ける力が弱まり、(中略)イギリスは絶体絶命となり、ヒトラーがヨーロッパの勝者になった可能性が高くなったであろう」
            (『リメンバランス・オブ・ウォー』 ハーマン・ウォーク)
 アメリカの作家、ハーマン・ウォークは以上のように分析しているが、その後の戦局と歴史に大きな影響を与えたことは想像に難くないであろう。(ただし、ヒトラーがヨーロッパの勝者にならなくて良かった思うが、それとこれとは別である)
 米軍機の攻撃により、機動部隊は、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失い、残る空母は、山口が座乗する「飛龍」1艦となった。
 奇跡的に、米軍の攻撃をかわした山口はただちに反撃を決意。
 「我レ、今ヨリ航空戦ノ指揮ヲトル」と、各艦に信号を出し、「飛龍」の稼動全機、零戦6、艦上爆撃機18を発艦させた。
 圧倒的不利の戦況でなお攻撃を敢行したのは、「飛龍」1艦で敵空母を沈めんとする、山口多聞の火の玉のような闘志の表れであった。2度の攻撃で、米空母「ヨークタウン」を大破(翌日、日本潜水艦の攻撃により沈没)させ、一矢報いた。
 しかし、その「飛龍」と山口に最期が訪れる。
 米急降下爆撃の攻撃を受け、次々と被弾。「飛龍」は大火災を起こした。懸命の消火作業もむなしく、ついに、山口は総員の退艦を命じた。
「蒼龍、飛龍の喪失に対し、司令官その責に任じ本艦の最期を見届く。一同退艦して今後の奉公を期すべし」
と、訓示して山口は、一同の退艦要請を振り切って飛龍艦長、加来止夫大佐とともに、艦橋にもどり、「飛龍」と最期をともにした。
 「飛龍」とともに、慫慂として、運命をともにした山口の潔さに、感動を覚える。しかし、ミッドウェーの敗北により、その後の戦局が苦しくなるであろう日本にとって、敗北と同時に名将山口を失ったのは、空母4隻を失ったと同じぐらいの大損害であった。
 山口多聞のその早すぎた死は、日本の敗北を決定づけたと言っても過言ではあるまい。



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