シリーズ提督の決断C
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

小澤治三郎
おざわ じさぶろう
1886〜1966
略歴:
宮崎県出身。海兵37期。卒業成績179人中45番。海軍中将。
太平洋戦争海戦時、南遣艦隊司令長官。第三艦隊司令長官などを経て、昭和19年第一機動艦隊司令長官。レイテ海戦では囮部隊として出撃、その目的をはたす。軍令部次長を経て、昭和20年5月、最後の連合艦隊司令長官となる。

 小澤治三郎。仇名はその風貌から「鬼ガワラ」。
 戦史ファンの中では、日本海軍のなかで名提督と評価する人が多い。
 小澤は世界の海軍史上、画期的な構想を具体化させた。
 数隻の空母を基幹とした艦隊=機動部隊を作り出したのだ。
 小澤は早くから「航空主兵論」を唱えていた。それまで、航空は戦艦の補助戦力としか考えられていなかった。しかし、航空機は強力な戦力であり、航空機を搭載する空母を組み合わせれば大戦力になるというのが、小澤の「航空主兵論」の骨子であった。
 小澤はこの考えから機動部隊の編成を進言、それを受けて日本海軍は世界海軍に先駆けて機動部隊を創設したのである。昭和16年4月のことである。
 衆目の見るところ、この機動部隊の司令長官に就任するのは小澤だと思われていた。しかし実際に、この世界初の機動部隊の司令長官になったのは、発案者の小澤ではなく、航空には素人の南雲忠一中将であった。
 なぜ開戦間近のこのとき、とても適材適所と言い難い人事が行われたのか。それは、南雲が、小澤よりも海軍兵学校の先輩(南雲は36期、小澤は37期)であり、同じ中将でも先任であったからである。南雲を飛び越えて小澤が司令長官につくなど当時の海軍では不可能であったのだ。
 余談だが、海軍ではこの人事のままで、まさか日米開戦に持ち込むことなど考えていなかったのではあるまいか。
 そもそも、山本五十六の連合艦隊の就任からして、対米戦を睨んでの人事ではなかった。
 山本は、連合艦隊の司令長官に就任する前には海軍省の政務次官として中央にいた。そのころ、日独伊軍事同盟を締結する運動が巻き起こり海軍は必死になってこれを阻止した経緯がある。この同盟反対の急先鋒に立ったのが山本である。
 強引に三国同盟を進めようとする陸軍と右翼団体は、連日のように海軍省に押しかけ、強談判し、遂には山本の命を付け狙うまでにいたった。
 その山本の身を案じたのが、山本の上司で海軍大臣の米内光政(よない みつまさ)である。米内は山本の身柄の安全の確保と、ほとぼりを冷ますために連合艦隊司令長官として海上に送り出した。
 つまり、海軍中央としては、山本の司令長官就任は、中央復帰(海軍大臣として)までの一時的に与えた官職にすぎなかったのだ。この理由を見てもとても戦時の人事の発想ではなく、平時の人事の発想であった。
 万事がこの体制でいたところに、時局が急展開し、平時そのままの人事体制で日米開戦を迎えたというのが真相ではあるまいか。(しかし、この説には自分で言いながら、異論がある。戦争中にもしばしば首を傾げたくなるような人事が行われた。これは最早、海軍の機能が官僚的になり、動脈硬化をおこしていたのかもしれない。このことに関しては、別の項で触れる)
 余談が長くなった。
 思えば、この人事は、南雲にとっても小澤にとっても、そして日本海軍にとっても不本意な人事であったと思われる。非常時の人事と言うのは本当に難しいものだ。
 開戦時、小澤は南遣艦隊司令長官として、シンガポール攻略に向かう第25軍の支援を担当し、マレー半島の上陸成功に導いた。さらに続いてジャワ上陸作戦をも支援し、見事な成果をあげた。このため、陸軍の信望も厚く、海軍きっての名提督の評を集めた。
 しかし、彼の構想による機動部隊を指揮する機会は恵まれなかった。小澤がやっと第一機動艦隊長官として機動部隊を指揮したのは、日本が敗退を重ねていた昭和19年のことである。
 小澤にとっては不幸なことだが、もはや、敗退の引き潮のなかで指揮をとらざるを得ない状況であった。すでに、日本の航空戦力は長引く戦争の中で消耗し、錬度の低い、未成熟なパイロットを擁して、攻勢のアメリカを相手に戦わざるをえなかった。
 昭和19年6月。日米決戦の場はマリアナ沖である。マリアナ諸島、サイパンがアメリカ軍によって陥落すれば、日本全土はアメリカの長距離爆撃機B−29の作戦圏内に入る。サイパンは太平洋戦争の「天王山」となったのである。
 圧倒的な優勢を誇る、アメリカ軍に小澤が臨んだ戦術は「アウトレンジ戦法」である。
 日本の航空機の航続距離は、アメリカの航空機のそれよりも長い。アメリカ艦隊の航空機の手の届かない位置でアメリカ軍を捕捉し、攻撃を加えれば勝てる。
 ボクシグで言えばリーチの長い者が、短い者に一方的に攻撃を加えることができるのと同じ理屈である。
 小澤も軍令部もそのように考えた。

 しかし、小澤を待ち構えるアメリカ機動部隊は、日本の予想外な兵器を備えていた。
 レーダーとVT信管である。
 この当時、日本もレーダーを装備していたが、アメリカのそれと比べると遥かに精度が劣るものであった。優秀なレーダーをもつアメリカは日本軍航空機の大編隊の飛来を早くから察知し、万全な備えをとることができた。
 また、VT信管とは砲弾の先につけて破裂させる信管である。VT信管をつけた砲弾は目標物を感知して、その近くで破裂する。飛来する攻撃機群に向かってその砲弾を発射すれば、VT信管が航空機を感知してその近くで破裂し、破片と爆風で航空機を落とすことができる。
 実は、アメリカ軍は、レーダーとVT信管の開発は、日米開戦の前から着手していた。
 小澤のアウトレンジ戦法は、レーダーによってアメリカに察知され、米戦闘機に万全の布陣で待ち伏せされ、それをくぐりぬけた攻撃機もVT信管によって次々と落とされた。この有様はアメリカ軍をして「マリアナの七面鳥うち」言われ、一方的な大敗北を喫した。
 この海戦で日本は空母「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を失い航空機約400機を失った。事実上、日本機動部隊の最期であった。
 もはや、どのような妙計も、圧倒的な物量と科学力の前では太刀打ちできない状況であったと言わざるを得ない。
 続く10月。アメリカ軍はその攻略の手をフィリピンに伸ばしてきた。迎え撃つ日本海軍はかねてから考案していた「捷一号作戦」を発動した。

 「捷一号作戦」は、アメリカ軍の上陸地点、レイテ島に戦艦部隊を突入させるのが目的であったが、レイテ付近にいるアメリカの機動部隊を北方につりあげるために、小澤の機動部隊を囮として南下させ、その隙に栗田健男中将指揮する戦艦部隊が突入させるという捨て身の作戦であった。
 当然、囮となる小澤艦隊にはアメリカ軍の攻撃が集中し、全滅は必至である。しかし、もはや日本にはこのような作戦の常道を無視したような戦法しか採りようがなかったのであろう。ちなみにあの「神風特別攻撃隊」もこの戦いから生まれた。
 こうして戦史に残る「比島沖海戦(レイテ海戦)」が始まる。
 作戦は成功した。アメリカ機動部隊のハルゼー大将は囮とも知らず小澤機動部隊を求めて北上。そのすきに栗田艦隊はレイテ目前まで迫ることができた。
 しかし、栗田中将はレイテ目前で謎の反転を行い、レイテ突入をしなかった。
 その間、小澤艦隊はハルゼーの猛攻を一手に引き受け壊滅的な打撃を受けた。ここに、連合艦隊は事実上壊滅した。小澤の機動部隊は無駄死に終わったのである。
 この海戦後、小澤は軍令部次長に就任し、翌20年5月末、連合艦隊司令長官に就任した。そしてこれが、日本海軍最後の連合艦隊司令長官になったのである。また、同時に大将に昇進する話もあったが、「大勢の部下を殺した自分にその資格は無い」といって固辞した。
 すでに日本海軍には「大和」もなく、連合艦隊とは名ばかりの状態であった。
 そして、敗戦。海軍の一部には徹底抗戦を求める不穏な動きがあったが、小澤は連合艦隊司令長官として、説得した。また、司令部の幕僚のなかには自決しようと考えた者がいたが、幕僚をあつめて「君たちは死んではならない」と訓示した。
 小澤ほど開戦時から艦隊司令官として第一線で指揮し、砲弾と魚雷をかいくぐった司令長官は居なかったであろうが、「自分は死にぞこなった男だ」と言って、戦後は一切語ることなく沈黙を守り、清貧のうちに亡くなった。
「敗軍の将 兵を語らず」と言ったところか。



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