シリーズ提督の決断F
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

大西瀧治郎
おおにし たきじろう
1891〜1945
略歴:
兵庫県出身
海兵40期。航空本部教育部長、第一連合航空隊司令長官を経て、昭和19年第一航空艦隊司令長官となる。切迫するフィリピン戦線において戦闘機による体当たり作戦「特攻」を敢行する。
同20年軍令部次長。終戦の日に割腹自殺する。

 大西瀧治郎中将と言えば「特攻の生みの親」として知られているが、もともと特攻作戦には反対だったと言われている。
 戦局が悪化する中、戦闘機に爆弾を積んで体当たりする「特攻」を主張する者もいたが、それを聞いた大西は「統帥の外道」として反対したらしい。

 しかし、その大西が第一航空艦隊司令官として「特攻作戦」を命令したのは、来るべきフィリピン戦線=捷一号作戦が太平洋戦争の天王山として重要視し、何が何でも勝たねばならぬという決意からであった。

 しかし、大西個人としては若者を爆弾とともに体当たりさせて死なせるという作戦にもならない作戦を命じること、さらに人間としての良心に呵責されたことは想像に難くない。

  昭和19年10月20日朝、大西は特攻隊員達を集め訓示した。豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ、顔面が蒼白で引きつっていたという。

 訓示では「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。したがって、自分は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせることはできない。自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ」と言った。そして、大西は特攻隊員ひとりひとりと「しっかりたのむ」と握手して見送った。

 こうして大西は特攻隊の生みの親となった。終戦までに日本海軍で特攻隊として散華した若者は2516名に及んだ。

 戦争末期、大西は軍令部次長に就任した。軍令部次長になった大西は官舎に独居して妻とは一緒に住まなかった。それを聞いた者が「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めた。
大西は「家庭料理どころか特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手して行ったのが614人もいるんだよ」
と、答えた。大西の目には涙が溜まっていた。 大西には、最期には必ず自分も特攻隊員の後を追うという覚悟ができあがっていたのであろう。しかし、自らにそのような覚悟があるからといって、特攻が正当化されることはないということを彼は次のように語っていたようである。

 「特攻は統帥の外道である」
「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」
 つまり、自分が死んで後その評価は百年経っても定まらない、誰も自分がやったことを理解しないだろうと語っていたのである。

 昭和20年8月。大西は徹底抗戦を主張。最後まで降伏には反対した。そして終戦の日の夜。彼は、
 「特攻隊の英霊にもうす。善く戦いたり。深謝す。われ死を以って旧部下とその遺族に謝す」と遺書を残して割腹自殺を遂げた。



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