シリーズ提督の決断A
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

南雲忠一
なぐも ちゅういち
1887〜1944
略歴:
山形県出身。海兵36期、卒業成績191人中7番。海軍大学校卒。海軍中将

 航空母艦。略して空母はこの当時特殊な艦船であった。
 航空機は数百キロ離れた敵を攻撃できる。その航空機を搭載した空母は極めて機動性の高い艦船である。その空母を基幹とした艦隊が世に言う機動部隊だが、ひとつ欠点があった。それは攻撃力が高い反面、防御力が極めて低いのである。
 それはいたし方のないことである。空母は上部のほとんどが飛行甲板になっており、当然のことながら対空砲火が不足する。その空母が艦隊の基幹となっている以上機動部隊の防御が手薄になるのはやむをえなかった。つまり航空戦(空母対空母の戦い)においては敵を先に発見して攻撃したほうが圧倒的に有利になる。
 実は航空戦時代が開幕するのは太平洋戦争からである。それまでの海戦の主力は厚い装甲に覆われ、大きな大砲を装備した戦艦であると考えられていた。戦艦は大きく、巨大な砲を多く装備した艦が強いという考え方があった。いわゆる大艦巨砲主義である。(この考え方は広いドーム時代に逆行するように強打者だけ集めれば野球は勝てると考えているどっかの球団に似てないか?)
 太平洋戦争前、大艦巨砲主義は世界のどの国の海軍でも主流をなしていた。海戦は艦隊と艦隊の打ち合いで行うものであり、航空機はその補助戦力にすぎない。第一、厚い装甲に覆われた戦艦は攻撃機の攻撃では沈まないと考えられていた。たしかに航空優先を唱える軍人はどの国にもいたがそれは少数派であった。その中で機動部隊を世界に先駆けて作った日本海軍は航空戦時代の先駆者と言えるであろう。
 さて、その機動部隊を太平洋戦争開戦時、指揮したのが南雲忠一中将である。
 南雲は元来、魚雷専門の「水雷屋」。航空はズブの素人である。日米開戦という重大な局面で航空戦に素人な人を機動部隊の司令官に仰がねばならなかったというのは、ただただ日本海軍の年功序列の人事のためであった。
 真珠湾攻撃は機動部隊が行わなければならないが、真珠湾へむかう航海中、「出るには出たがうまくいくかなあ」と参謀へこぼしていた。しかし、案に相違して真珠湾攻撃は成功する。
 しかし、アメリカ軍の空母は真珠湾を出航していたため討ち漏らした形となり、基地の施設もほとんど手付かずのままになっていた。南雲としてはアメリカの艦隊に大損害を与えた以上、無傷のまま機動部隊を日本に帰したかった。そのため第二次攻撃を行わず、また敵空母を求めて行動することなく引き上げている。もしこの時、敵空母を沈めるか、ハワイの基地を破壊できたとしたら今後の戦況はまた異なった結果になっていたかもしれない。
 しかし、これは歴史の後知恵というものであり、このとき南雲機動部隊のおかれた立場とすれば追撃を控えた決断は慎重であったと評価できるかもしれない。
 しかし、真珠湾攻撃から半年後、昭和17年6月のミッドウェイ海戦においてこのときのツメの甘さのツケを払わされる。
 日本とハワイの中間にあるミッドウェイ島をたたけばアメリカの機動部隊はいやでも決戦に出てくる。ミッドウェイを攻略し敵空母をたたく、そしてハワイ、米西海岸を狙って早期講和にもちこむ。これがミッドウェイ作戦を企画した山本連合艦隊司令長官の狙いである。はたしてアメリカは、日本側の目論見どおり総力をあげて迎撃にのりだしていた。
 ここで南雲司令部は重大な誤算をおかす。アメリカ機動部隊の出動はミッドウェイ攻撃後であり、ミッドウェイの周辺海域には敵の空母はいないと思い込んでいた。しかし、日本側の暗号解読に成功したアメリカ軍は、機動部隊をミッドウェイの周辺海域に出動して待ち伏せしていた。
 6月5日南雲機動部隊はミッドウェイを空襲。第二次攻撃隊は敵空母の出現にそなえ魚雷を装備して待機した。しかし、周辺に敵空母はいないと考えていた機動部隊は油断し、満足な索敵を行わなかった。
 やがてミッドウェイ島を攻撃した第一次攻撃隊から、「第二次攻撃の要あり」と報告をうけ、南雲は第二次攻撃隊をミッドウェイに向かわせるべく、魚雷を陸用爆弾に変更させた。
 魚雷から陸用爆弾に変更した攻撃隊が出発しようとしたその時、索敵機から「敵空母発見」の報告が入る。
 「敵空母発見」の報に驚いた南雲中将は陸用爆弾に変更した爆弾を再び魚雷を装備するように命令を下す。この時、一刻を争うと判断した第二航空戦隊の山口多聞少将は「ただちに攻撃隊の発進の要ありと認む」と南雲長官あてに意見具申した。山口は魚雷に装備を変えることなく爆弾で先制攻撃をかけ、海戦の主導権をにぎるべきとの判断である。
 しかし、南雲は戦闘機、攻撃機、爆撃機の三身一体となった正攻法をとり、山口の進言を無視。爆弾から魚雷の転換は貴重な時間を空費する。
 出撃の準備が整って攻撃隊が発艦しようとしたその時、アメリカ軍攻撃機が飛来、攻撃を受ける。日本軍の空母には度重なる命令の変更により爆弾が艦内に散乱していた。それが攻撃を受けて次々と誘爆をおこし、またたくまに空母「赤城」「加賀」「蒼竜」が大火災を起こす。一方的な大敗北であった。
 航空戦においては一瞬の決断が勝敗を左右する。そのことを理解しきれてなかった南雲中将とその司令部が招いた敗北であった。しかし、ミッドウェイの敗因はそれだけではなかった。すなわち、
@ ミッドウェイ作戦の目的がミッドウェイの攻略にあるのか、米空母の撃滅にあるのか明確でなかった。そのため、現場(南雲機動部隊)の判断に迷いが生じることになった。
A 真珠湾以来の連戦連勝でアメリカ軍を侮っていた。
B アメリカ軍に作戦が漏洩していた。また日本軍も機密の保持と言う点で全く鈍感であった。このことは、当然極秘事項であるべき作戦目標がミッドウェイであることが、呉の一般市民が知っていたと言う事実でわかる。
C アメリカ機動部隊がミッドウェイ周辺にいないと思い込んでいたこと。そのため索敵活動を疎かにしたこと。これは、Aの敵を侮っていたことに通じる。
等があげられる。このことは南雲機動部隊のみの責任でなく、軍令部、連合艦隊司令部をふくめた海軍全般の責任であろう。
 いずれにしても、ミッドウェイ海戦はこれまで攻勢を保っていた日本が守勢に転換させられた戦いであった。そしてこれ以後、日本は敗戦への道を緩やかに辿っていくことになるのである。
 昭和19年3月。アメリカ軍はマリアナに攻勢をかける。日本の防衛上の重要拠点サイパンを守るため、南雲は中部太平洋方面艦隊長官になっていた。しかし、6月のマリアナ沖海戦の敗北に伴い、7月サイパン陥落。南雲中将は陸上において玉砕の運命をたどった。



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