シリーズ提督の決断E
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

栗田健男
くりた たけお
1889〜1977
略歴:
茨城県出身。海軍兵学校38期。卒業成績149人中28番。海軍中将。
レイテ海戦で戦艦部隊を指揮した第二艦隊司令長官。大正中期より駆逐艦水雷長、駆逐艦長を歴任。昭和になると、駆逐艦司令、水雷戦隊司令官をつとめた『水雷屋』である。
レイテ沖海戦後は海軍兵学校長となり終戦を迎える。

 栗田健男中将といえば、レイテ沖海戦における「謎の反転」で知られている。レイテ沖海戦から今日に至るまで「謎の反転」の真の理由はいまだに明らかにされない。
 ところで、「謎の反転」とは何か。レイテ沖海戦の推移を含めて説明しよう。
 昭和19年(1944)10月、フィリピンのレイテ島に殺到したアメリカ軍を迎え討つため、連合艦隊は「捷一号作戦」を発令した。
 すでに、先のマリアナ沖海戦で機動部隊が潰滅した連合艦隊はすべてをこの一戦にかけた。そのために生み出された、思いも寄らぬ奇襲作戦が「捷一号作戦」である。
 超大型戦艦、「大和」、「武蔵」を主力とする第二艦隊(司令長官・栗田健男中将=以下、栗田艦隊)のレイテのアメリカ軍の上陸部隊への殴り込みを成功させるべく、レイテ付近にいるアメリカ機動部隊におとりをかけたのである。
 おとり役になったのは、日本本土から南下する、小澤中将率いる機動部隊(以下、小澤艦隊)である。
 その他、西村祥治中将、志摩清英中将が率いる戦艦部隊の別働隊もそれぞれレイテ突入をめざす。

 「捷一号作戦」は日本海軍がすべての戦力を投じた「大作戦」であった。なにしろ、虎の子の空母を囮にするのである。当然、囮となる小澤艦隊は全滅する。
 更に、この作戦を成功させるために悲しむべき作戦がとられた。飛行機に250キロ爆弾を積んで、飛行機もろとも敵艦船に突っ込むという特攻作戦がとられた。しかし、その間に栗田艦隊がレイテに突入すればフィリピンに上陸するアメリカの上陸部隊を潰滅できる。すべては、栗田部隊のレイテ突入を成功させるためにとられた捨て身の作戦であった。
 ブルネイを出発した栗田部隊は早くもアメリカ潜水艦の接触を受け、10月23日、パラワン水道にて潜水艦の攻撃により、旗艦の重巡「愛宕」をはじめ重巡「摩耶」が沈没、「高雄」が大破した。
 翌24日、シブヤン海に入った栗田艦隊は、アメリカの猛将ハルゼー大将率いる機動部隊の猛攻撃を受ける。この攻撃により戦艦「武蔵」が沈んだ。
 栗田長官は一時航路を西に取り、引き帰した。しかし、これはハルゼーの目をくらます偽装進路であった。そしてこの策は成功する。ハルゼーはこの日本軍の行動を敗走とみなし、同時に南下しつつある小澤機動部隊を囮と知らずにこれを求めて北上した。「捷一号作戦」はまんまと成功したのである。
 再び、進路を東に取った栗田艦隊は何の障害も受けずにレイテに向かった。途中10月25日、サマール島東沖において、アメリカ空母群と突如出会う。実は、この空母群はレイテ上陸部隊の護衛空母に過ぎなかったのだが、これを、本格的な米機動部隊と思った栗田長官はただちに砲撃を開始した。戦闘は日本側に有利に進み、この艦隊に大打撃を与えた。
 サマール沖の海戦後、栗田艦隊は目的地レイテ島にむかって進んだ。
 このとき、西村艦隊はすでに潰滅し、囮となった小澤艦隊は、ハルゼーの機動部隊を一身に受けて潰滅寸前であった。
 囮作戦に成功した小沢中将は栗田艦隊と、当時横浜の日吉の地下壕にあった連合艦隊司令部にむけて囮作戦成功の電報を発信した。
 しかし、ここにレイテ海戦最大の謎が発生する。この無電が栗田艦隊司令部に届かなかったのである。
 更に、連合艦隊司令部が発信した栗田艦隊宛の激励電報も届かなかった。
 外部の状況が全く入らない状態にあった栗田艦隊司令部はレイテ突入をためらう。
 それは、
@ 囮作戦の成否が判らず、背後からいつハルゼー機動部隊が襲ってくるかわからない。
A サマール沖海戦により戦果をあげた。(栗田艦隊が戦果を挙げたと思ったのは実は輸送船団の護衛空母にすぎなかったのだが、この時栗田艦隊はこのことを知るよしもない)この上のリスクを負う必要があるのか
B このままレイテに侵攻すれば先日の戦闘で半減した艦隊は、米輸送船団と刺し違える形で全滅するに違いない。虎の子の艦隊をこの様な形ですり潰してよいのか。
 ということが、栗田司令部の判断を鈍らせた。そして、それは情報が全く入ってこないという不安からおきたことであった。
 一方、レイテに上陸したアメリカ軍は「日本戦艦部隊迫る」の報になすすべがなかった。このまま栗田艦隊がレイテ湾に突入し猛烈な艦砲射撃を行えば、フィリピン攻略部隊は潰滅する。そうなればアメリカは未曾有の大敗北となりフィリピン攻略作戦そのものが頓挫する。アメリカのフィリピン攻略軍司令部のだれもがそのように考えた。
 後にマッカーサ大将(後に元帥)は回顧録に言う。「このとき勝利は栗田提督の手に握られていた」
 しかし、この時栗田中将は迷いに迷っていた。そして、戦史上最大の謎に満ちた決断を行う。「レイテ突入を断念し、進路を北に取り敵機動部隊を求める」という決断である。
 ここに、栗田艦隊はレイテ突入の機会を永遠に失う。そしてこの決断により栗田提督は『弱将』・『怯将』の汚名を受けることになる。
 栗田提督がレイテ突入を断念した直接の原因はわからない。栗田自身戦後も一切このことについて語っていないからだ。
 しかし、この原因の大きな要素に、情報の不足というのが挙げられるであろう。
 先程も述べたとおり、小沢艦隊や、連合艦隊司令部が発信した電報が栗田司令部に届かなかった。なぜこうまでこの時電報が届かなかったのか?これも戦史の謎である。
 栗田司令部が座乗した戦艦「大和」はマストも高く、通信感度が他の艦船に抜きん出て優秀な船であった。その船に乗りながら全く情報が入らないということが考えられるであろうか。
 ここで一つの仮説がある。
 当初、栗田司令部は重巡「愛宕」にあった。しかし、「愛宕」がパラワン水道で米潜水艦の攻撃を受けて沈没すると、旗艦をを戦艦「大和」に移した。
 この時の緊急の司令部移動に司令部付の通信班が完全に移動できなかった。
 艦隊司令部ともなればより高度な暗号で通信される。といことは、通信班が完全でなくては電波が傍受できても解読が不可能になる。事実この時愛宕に移動できたのは通信班の数人の士官しか移動できずしかも暗号表も紛失していたと言われる。
 つまり、「大和」には電波が届いていてもそれを解読することができなかった。以上は一つの仮説であるが大変有力な説だと思う。
 この説によって考えたとき、もし旗艦が最初から「大和」だったら。このような混乱がなく、作戦どおりレイテ突入を果たしたに違いない。そうなると、その後の太平洋戦争全般に及ぼす影響もまたちがったものになったであろう。
 決断を下す際における情報の確保の大事さとその難しさ。レイテ海戦は教えている。



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