シリーズ提督の決断G
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

伊藤整一
いとう せいいち
1890〜1945
略歴:
 福岡県出身。海兵39期。海大卒。昭和16年(1941)9月軍令部次長に就任。太平洋戦争の前半の作戦を指導した。
 昭和20年(1945)1月、第二艦隊司令長官に着任。4月の大和の沖縄特攻作戦を指導し、大和とともに運命をともにする。
 戦死後、大将に進級。

 「戦艦大和」。あまりに有名なこの戦艦の名は誰もが一度は聞いたことがあるであろう。
 しかし、その知名度と裏腹に実際の戦場での活躍はほとんどなかった。

戦艦大和は史上最大の46センチ砲の主砲9門を搭載し、排水量72800トン。全長263メートル。当時の国家予算の3パーセントにあたる1億4000万円を投じ4年の年月と、日本の造船技術の粋を集めてつくられた弩級戦艦である。
 しかし、大和が完成した昭和16年12月。すでに真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦。皮肉にも日本海軍の真珠湾の成功により大艦巨砲の時代は終わり、航空戦時代の幕が開けられたが、その日本海軍が大艦巨砲の大和を生んだ。
 昭和17年(1942)2月、大和は連合艦隊の旗艦となったが、実際の戦争は空母を基幹とする機動部隊が太平洋を狭しと活躍し、大和をはじめとする戦艦部隊は瀬戸内海柱島の泊地に居座るのみであった。そのため「柱島艦隊」と機動部隊に揶揄される有様であった。

 大和の出撃は昭和17年5月のミッドウエイ作戦である。
 このとき、山本連合艦隊司令長官が座乗する大和を旗艦とする戦艦部隊は、前衛の機動部隊のはるか後方を付いて行った。しかし、肝心の機動部隊が潰滅。大和はなすこともなく内地に引き上げた。
 
 主戦場が南太平洋になると大和も進出。日本の真珠湾といわれたトラック島に連合艦隊の旗艦として戦艦部隊を従えて入港したが、実際の戦闘は制空権の争奪をめぐる航空戦であり、戦艦の出番はなかった。
 大和はここでも動くことなく、空調設備と軍楽隊をもつ優雅さから「大和ホテル」と呼ばれた。

 昭和19年(1944)6月、マリアナ沖海戦が起きる。
 マリアナ諸島、特にサイパンの争奪戦は日米の天王山と見られ、日本海軍はその戦力のすべてを投入してマリアナ沖海戦に望んだ。もちろん大和も出撃した。
しかし、マリアナ沖海戦は一方的に敗北し、大和の対空砲火もさしたる活躍をすることなく引き上げざるを得なかった。

 同年10月。フィリピンの争奪をめぐってレイテ海戦がおきる。しかし、栗田中将のなぞの反転命令(栗田健男の項を参照)により大和はレイテ突入直前で反転。またも大きな戦火をあげることなく虚しく引き返している。


 この頃になると、戦艦を満足に動かす油すらなく、港に繋がれ浮かべる砲台になりはてていた。そんな大和の第二艦隊の司令長官に着任したのが伊藤整一中将である。

 その伊藤中将の第二艦隊に出撃命令が下ったのは米軍が沖縄に上陸した4月のことである。
 その命令内容は大和を沖縄に乗り上げ、浮かべる砲台となれと言うものであった。

 合理主義者の伊藤はこの作戦に反対した。大和をはじめとする第二艦隊が沖縄に辿り着く可能性は極めて低く、成功の望みはまず無い。空からの援護の無いハダカの艦隊が出撃することは無謀の挙以外の何者でもないことは明白であった。

 しかし、説得に赴いた草鹿龍之介連合艦隊参謀長の一言で大勢は決まった。
 「一億特攻の先がけとなってもらいたい」

 この言葉で伊藤は無言のまま命令を受けた。

 4月7日。徳山沖を出撃した第二艦隊は、九州坊の岬沖でアメリカ艦載機の攻撃を受けた。攻撃は大和に集中し、さしもの浮沈戦艦といわれた大和も最期を迎えた。

 伊藤中将は大和の艦橋で、幕僚の「作戦を中止することはありません。駆逐艦が健在です。移乗して沖縄へ突入すべきです」という反対論を抑え、「作戦中止。残存艦船は内地に帰れ」と強く命令、そして長官室に入り錠をおろした。そしてふたたびその錠が開くことはなかった。
 上からの命令に反する命令を下すことによって、生き残った多くの部下を残し、自らは責任をとって生きようとはしなかった。

 ちなみに、大和部隊の最期は次の通り。

大和 沈没   生存者276名   戦死者2740名
矢矧 沈没   戦死者446名   戦傷者133名
磯風 沈没   戦死者20名    戦傷者54名
浜風 沈没   戦死者100名   戦傷者45名
朝霜 沈没   戦死者326名(全員戦死)
霞  沈没   戦死者17名    戦傷者47名

沈没を免れたもの
冬月      戦死者12名    戦傷者12名
涼月      戦死者57名    戦傷者34名
雪風      戦死者3名     戦傷者15名
初霜      戦死者0名     戦傷者2名



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