シリーズ提督の決断D
人生で最も貴重な瞬間 それは決断の時である
太平洋戦争はわれわれに平和の尊さを教えたが
また生きるための教訓を数多く残している   (アニメンタリー決断より)

 戦争という極限状態において指揮官=提督たちはどのように決断を下したのであろうか。このシリーズでは提督たちの人物像を追いながらその決断を考える。

福留繁
ふくとめ しげる
1891〜1971
略歴:
鳥取県出身
1926年海軍大学校卒。35年から軍令部作戦課長。戦艦長門艦長、連合艦隊参謀長を経て軍令部作戦部長に。
山本五十六連合艦隊司令長官の死後、連合艦隊参謀長に戻る。
44年、搭乗機の不時着でフィリピン抗日ゲリラの捕虜となり、機密書類一切を奪われる。海軍乙事件と呼ばれ問題化したが、責任は免れた。戦後、水交会理事長。「海軍の反省」(51年)の著書がある

 今、流行の感があるシミュレーション戦記(よく、最近書店で見るじゃないですか「逆転、太平洋戦争」とかああいうのです)で、もし敵の司令部がまるまる捕虜になり、その作戦書類を入手したなんて設定があったとしたら。あなたは「こんな訳ねェだろ」と、あまりにリアリティのない設定に興味を失うだろう。
 しかし、この小説家がリアリティを失うとして避けて通りそうな設定が実際の戦史では起きていた。「事実は小説よりも奇なのである」。
 この「小説よりも奇」な事件は「海軍乙事件」として、戦争中は極秘中の極秘として取り扱われた。
 とりあえず、海軍乙事件のあらましを説明しよう。
 昭和18年、4月。山本五十六が戦死すると(この事件を海軍甲事件という)、連合艦隊司令長官の後任に古賀峯一大将が就任した。
 昭和19年、日本海軍の南太平洋の根拠地、トラック諸島にアメリカ軍の攻撃の手が伸びると、連合艦隊司令部はパラオに後退した。しかし、そのパラオも空襲を受けるようになると、ミンダナオ島のダバオに後退することになった。
 3月31日。古賀司令部は2機の二式大艇に分かれてダバオに向かった。1番機は古賀長官、2番機は参謀長の福留繁中将を先頭にそれぞれ幕僚が分かれて随行した。
 しかし、その途中思わぬ事件が発生する。悪天候に巻き込まれ、古賀長官の搭乗機は行方不明、福留参謀長の搭乗機はセブ島に不時着し、抗日ゲリラの捕虜になるという事件が起きたのである。これを、「海軍乙事件」と言う。
 福留参謀長一行が捕虜になったと同時に、携帯していた中部太平洋方面作戦書(Z作戦計画)とその他書類一式がゲリラに奪われてしまった。
 これらの書類はゲリラを通じてアメリカ軍の手に渡った。Z作戦計画は後のマリアナ沖海戦、捷一号作戦の計画が書かれていた。つまり、アメリカ軍はこの時点で日本海軍の手の内を知ったのである。(その後、アメリカ軍がマリアナ沖海戦、レイテ海戦に勝ち勝利を決定付けたのはご存知の通りである)
 ゲリラから解放された福留中将は、この重大な責任を問われることなく、フィリピンの二航戦の長官に昇進した。
 なぜ、福留中将は一切の責任を問われず、このような不可解な人事が行われたのか。どう考えても、海軍があまりに不祥事なこの事件を隠蔽しようとした人事であるとしか考えられない。海軍上層部はこの事件を隠蔽することによって保身を図ったのである。
 余談だが、これは海軍に限ったことではなく、陸軍も同じであった。
 例えば、昭和14年満ソ国境でノモンハン事件が起きた。これは日本軍が死傷7割という大損害を出した戦いであったが、この原因は作戦を指導した関東軍参謀の辻政信の責任であった。しかし、陸軍上層部と辻は一切の責任を現場指揮官に押し付け、中には自殺にまで追い込まれた指揮官もいた。そして、辻は中央(参謀本部)に進出し、太平洋戦争の作戦を指導した。(ちなみに、辻は戦後、衆議院議員そして参議院議員になっている。一体どういうつもりだったんだろう)
 また、昭和19年、インパール作戦が行われた。インパール作戦は補給を無視した無謀な作戦であったが、その作戦の失敗を無断で退却した師団長に負わせ、作戦を裁可した陸軍上層部はなんら責任を取ることなく終始している。
 どうして、このような事がまかり通るのか。結局、主流にいるエリートは罪に問われないという、極めて特異な組織であったとしかいいようがない。
 そして、不祥事を隠して保身を図るという体質は、日本の官界にも引き継がれた。
 例えば、厚生省がエイズウイルスのばら撒きの事実を隠蔽しようとしたことや、大蔵省で不祥事が発覚したときも、逮捕されたのは現役キャリアではなく、ノンキャリアばかりであった。つまり、ここでもエリートは守り通されたのである。
考えてみれば、陸海軍の体質が今の日本の官界に引き継がれたのではなくて、そもそも、官僚社会というものはそういう特異な(世間から見れば)ものであり、官僚化した陸海軍がその特異体質を引き継いだと考えたほうが自然のような気がする。
 「海軍乙事件」は過去の事件と単純に言い切ってしまうには生々しい事件である。このような事例は現在の官庁や、企業でも表沙汰にこそならないがいくらでもあるのではあるまいか。その意味では「海軍乙事件」は決して過去の事件ではないのである。
 戦後、福留は「決して書類は奪われていない」と主張した。心底そのように思っていたのか?それとも認めるのが恐ろしかったのか?事柄の余りの大きさに、恐らく死ぬまで悩んだのではないだろうか。



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