田沼意次
たぬま おきつぐ
1719〜1788
略歴:
 9代将軍家重の小姓、側衆から頭角を表し、10代家治のときに大名になる。
 側用人を経て老中になる。
 子の意知を若年寄に引き立てともに幕政を握り、世に「田沼時代」と言われる。
 重商主義を進めたため、賄賂が横行し、「田沼=汚職高官」として後世まで汚職高官の代名詞にまでなる。
 治世では物価高騰や天災など重なり思うように業績が上がらなかった。
 10代家治の死去とともに政敵松平定信らの画策により失脚。さびしい晩年を送った。

〈ワイロ最中〉
 「ワイロ最中」というお菓子をご存知だろうか。
 地元、静岡県ではかなり有名らしいが、菓子折りの中に小判型をした最中が入っているというかなりスグレモノのお菓子である。
 私は、まだ実物を見たことがないのでここで報告するのも恐縮だが、ネットの情報によるとふたを開けると、普通のお菓子を印刷した紙が入っていてその下に、例の小判型最中が入っているらしい。つまり、時代劇でよく見るように菓子の下に小判が敷き詰められている「あれ」と同じ訳である。じつによくできている、と思う。
 私、松代屋はこういう洒落の効いた小物に目がない。もし私が代官ならば「ワイロ最中」だけで「越後屋」に便宜を取り計らうに違いない。もちろん、「越後屋そちもワルよの~」とお決まりのセリフを言いながらだ(笑)。

 さて、この「ワイロ最中」は静岡県相良町で製造販売されている。
 相良町といえば、汚職高官で有名な田沼意次の居城があった町である。

 汚職高官、田沼意次を逆手にとって「ワイロ最中」なんか作るなんざ、もう洒落が効き過ぎだぞ。こうなったら大笑いだ。

 しかし、よく調べてみると「ワイロ最中」は決して田沼意次をおちょくった商品ではないらしい。
 「ワイロ最中」にはちゃんと田沼意次の政治家としての業績が紹介されているらしい。
 田沼=ワイロ政治家というイメージで「ワイロ最中」を買った人がその説明書を見て、田沼の業績を知ってイメージを改めてもらう。その方が、ただ「田沼意次公は立派な政治家でした」と宣伝するよりはるかにワイロ最中とのギャップにインパクトを与えるであろう。
 う〜ん。ニクイ。ニクイ演出だ。「ワイロ最中」

〈実は開明政治家だった、田沼意次〉
 最近、ようやく一般に浸透しだしたが、田沼意次=悪徳収賄政治家というイメージは払拭されつつある。実は田沼こそ江戸時代全般を通じて最も開明的な政治家であった。

 田沼が政権をとった江戸時代の中期。この時代は幕藩体制の矛盾が噴出した時代であった。
 幕藩体制の中心、幕府、大名、武士が財政難に陥ったのだ。
 理由は簡単である。武士の生活の基本が年貢からあがる米だったからである。
 武士は米を金に替えて生活をする。これは江戸幕府が始まってからこのようにしてきた。
 しかし、太平が続き商業が盛んになってくると、貨幣経済が急速に発達した。そうなると、米は絶対的なものからその他の商品と同じ価値になる。はやい話が米の価値が下がるということだ。
 米の価値が下がるということは、米を売って生活している武士たちの収入が減るということだ。しかも、江戸時代はインフレ社会だ。収入が減って、物価があがっていったのだ。これは武士たちの生活を圧迫した。

 この貨幣経済の流れにストップをかけた人物がいる。
 「暴れん坊将軍」こと徳川吉宗である。
 吉宗は倹約令を発布しぜいたくを戒めた。これにより、人々の生活を質素にもどし商品の流通をおさえ貨幣経済の流れを滞らせようとした。
 また新田開発を行い財政の増収をはかった。

 たしかに、この政策は当初成功を収めた。
 しかし、貨幣経済を抑えることは人々の生活を苦しめた。今でも同じだが金が出回らないと不景気になる。吉宗の倹約令は景気を著しく停滞させた。
 新田の開発だって限りがある。
 最後に、吉宗は米価の統制を行った。米価を統制することによって米を売って生活する武士たち(更に言えば、幕府や大名)の財政基盤を安定させようと考えたからだ。しかし、商品は「神の見えざる手」によって操られる。経済という化け物の前に米も例外ではなく、将軍吉宗といえども苦戦を強いられた。人々は米価と格闘する吉宗を「米公方」と呼ぶ有様だった。

 吉宗の政治は言わば反動政治だったのだ。貨幣経済が急速に発達する中で、家康時代の農本体制を理想に置き、政治を行う。当然、現実と合う訳がない。晩年、失意の内に吉宗は将軍職を退かざるを得なかった。恐らく貨幣経済に通じたブレーンにも恵まれなかったのも改革失敗の原因だろう。
 しかし、奇妙なことに後に行われる幕府の改革はこの吉宗の改革を模範とされた。このことも後に田沼が失脚する遠因ともなる。

 田沼意次が政治家としてすばらしいのは、現実路線に即した政策を行った点である。
 もちろん、それは現実との妥協と非難することもできるであろうが、吉宗のように現実から離れた反動政治は結局庶民を苦しめるだけだ。
 意次の場合、貨幣経済の急速な進展と、今までの農本主義政策が限界に来ていることを見抜きそれまでタブーだった重商主義に転換したのは見事と言うほかない。

 まず、意次は「株仲間」制度をつくる。これは商人の同業者で組合を作り、その組合に入っている商人たちのみが市場を独占できるという、公認のカルテルのようなものである。そして、その株仲間から冥加金=税金を取った。
 これは、いままで税収は農民からの年貢からという常識をやぶる画期的なものであった。意次にすれば年貢収入に限度がある以上商人から税金を取るというのは自然の流れであった。この政策により株仲間という制度で保護された商人を中心に商業が盛んになり、それとともに幕府の収入も増えた。

 意次は長崎の貿易も盛んに行った。当時「俵物」とよばれたフカヒレやホシアワビを俵に詰めたものを輸出した。当時海外では中華料理の食材として重宝されたようだ。江戸時代を通じて貿易収支が黒字になったのはこの時代である。

 また、蝦夷地(北海道)の開拓を進めた。その準備として大掛かりな現地調査を行っている。当時ロシア船が北海道沿岸まで出没するようになっていた。ロシア政府も日本との交易に積極的であった。田沼も内心は開国も視野に入れていた節がある。ひょっとしたら田沼政権が長く続いていたらロシアとの交易が行われ函館が開港されたかも知れない。ちなみにロシアへ漂流した大黒屋光太夫が帰国したのは田沼政権崩壊後のことである。帰国した光太夫は一種の邪魔者として軟禁されたがもし田沼政権が続いていたらロシア交易、北方開発のエキスパートとして登用されたに違いない。

 金銀の流通の一元化にも着手する。
 これは当時、江戸は金、大坂は銀が貨幣として流通し、金と銀の比率はそのときどきの相場で変動する。現在で言えば同じ国のなかで円とドルが流通しているようなものだ。これでは経済の発展を大きく妨げる。
 意次は新たに「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」を発行。これは「銀貨八枚で金一両と交換する」と明記され、金と銀との交換比率を一定に定めた。
 これら、意次の経済政策は成功を収め、幕府財政も好転した。人々の生活も安定して町人文化が花開いた。これが後の化政文化の源流になるのである。

 意次が経済通として優れている政策としてあげられるのは、「貸金会所」の設立である。これは、結果的には意次の失脚によって日の目を見ることなく廃案に終わったが、これは銀行機能そのものの設立であった。
 まず、農民、町人、寺社などあらゆる階層から資金を出させ、幕府直営の機関で運営する。その資金は各藩に貸し付け、将来返金された金は出資者に利子をつけて返すというものだった。
 こうすれば、各藩の財政を救うことになるし、出資者も強制的に貸し出される「御用金」(実際には苗字帯刀など名誉と引き換えに踏み倒さされるケースが多かった)と違って返済が保証されるので出資しやすかったはずだ。
 この銀行と同じ仕組みを意次はどこで聞いたのかわからないが、その発想はこの時代を飛び越えている。

〈反対勢力と失脚〉
 しかし、意次の一連の経済政策はこれまでの農本主義が正しいと思う保守派からは猛反対を喰った。特に8代将軍吉宗の孫、白河藩主松平定信は反田沼派の先頭に立った。
 定信の自伝によれば意次を刺殺しようとすること度々であったという。

 意次にとって大きな痛手になったのは相次ぐ天災であった。
 とくに、天明3年(1783)浅間山が大噴火をおこした。現在「鬼押し出し」として観光地になっているが、これはこのときの溶岩が固まってできたものである。このときの地震被害も甚大であったが、その噴煙が成層圏にまであがり日照不足がおきた。その結果、北陸から東北にかけて「天明の大飢饉」といわれる飢饉がおきた。この時の死者は10万人から20万人と言われる。

 更に、意次個人にも不幸が襲った。
 意次の息子、若年寄の重職に就いていた田沼山城守意知(おきとも)が江戸城中で旗本、佐野善左衛門に襲われ命を落とした。
 この刃傷事件の理由が今もって不明だが、裏で反田沼派が佐野を動かしたと考えてほぼいいだろうと思う。これによって意次の政治路線を引き継ぐ後継者が居なくなってしまった。
 しかし、世間は刃傷沙汰を起した佐野を賞賛した。世間では一介のサムライから老中に成り上がった意次にたいしてのやっかみや、権勢をかさに、ワイロをむさぼり私腹を肥やしているというイメージが定着していたのであろう。あの有名な川柳「役人の子はニギニギをよく覚え」というのはこのころの歌である。

 さらに不幸が襲った。
 意次が進めていた1大プロジェクト、印旛沼干拓の失敗である。
 印旛沼干拓がほぼ目星がついたころ大雨が襲い、堤が決壊。それにより下流の江戸の町を洪水が襲った。

 相次ぐ天災は、世論も田沼に逆風に吹いた。とくに天災は為政者の政治のやりかたに天が警告として起すものという考え方が当時の一般的な考え方だったから、人々は田沼の政治が悪いから天災が起きるんだと考えた。

 田沼政権にトドメをさしたのは将軍家治の死去であった。
 家治は意次に全幅の信頼を置いた。
 しかし、家治が人事不省に陥ると反田沼派は家治と意次を隔離。意次が家治の見舞いに訪れても将軍の命と称して面会を許さなかった。
 家治を「占拠」した反田沼派は将軍の命令と称して意次の政策を停止。そして老中職を罷免した。そしてそのあとで家治の死去を公表した。おそらく反田沼派が家治の死去を隠して様々な命令を下したのであろう。

 このように度重なる不運が重なって意次は失脚した。

 失脚した意次は所領も没収された。
 遠州相良5万7千石から、奥州下村1万石に減封。相良城は破却された。そして意次は隠居。失意の内に70歳で死去した。後には「汚職政治家」という汚名が残った。

 田沼意次というと「汚職政治家」というレッテルがあるが、意次を研究した大石慎三郎教授によると意次のワイロにまつわる様々な逸話のほとんどはゴシップであったり、彼の政敵が書き残したものなど、資料としては信憑性に欠ける物ばかりであるという。
 私が、学生だったころ田沼=汚職政治家として教わった。教科書にもそう書いてある。
そろそろ、このような田沼=汚職政治家という単純な図式から卒業したほうがいいだろう。

 田沼の政策は明治以後、統一貨幣、銀行設立、国民皆税という形で実現した。そういう意味でも田沼意次は不運な経済先覚者であった。



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