武田耕雲斎
たけだ こううんさい
1803〜1865
略歴:
 水戸藩士。家老。名は正生。官は伊賀守。耕雲斎は号。
 急進的な藩政改革派で、水戸尊王攘夷派の中心人物。
 文政12年の藩主継嗣問題では斉昭擁立に尽力。一橋慶喜の相談役となる。
 天狗党の筑波山挙兵に際しては、首領に推される。
 元治元年の天狗党の筑波山挙兵においては、自重論を唱えるも失敗。その後、藩内の抗争が激化したため在京の慶喜を説き、攘夷派の挽回を図るため、800の兵を率い、途中幕府の命令を受けた諸藩の兵と戦いながら中仙道を上京。美濃から越前に至ったものの積雪と疲労のため力尽き加賀藩に投降、慶喜にも見放され敦賀のニシン倉に放置され、天狗党ともども処刑される。

 幕末当初。政局を動かしていたのは水戸藩であった。
 元来、尊皇攘夷運動の家元は水戸である。
 水戸徳川家は、「水戸黄門」の光圀以来、「大日本史」の編纂を行っており、その過程で尊皇攘夷論を骨子とした「水戸学」が形成された。
 幕末の世論の中心となった尊王攘夷思想はこの「水戸学」から始まったと言っていい。
 政局も水戸藩が中心であった。
 ペリー来航以来、国防の中心にいたのは水戸前藩主、徳川斉昭であり、将軍継嗣問題も水戸がらみである。
 朝廷の信任を得て、幕府の頭越しに直接攘夷の勅諚を水戸藩が得たことから、幕府と対立。これが「安政の大獄」にまで至る。
 「安政の大獄」はそもそも水戸勢力の潰滅が目的であり、その報復が水戸浪士が井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」となる。
 このように、幕末初期の重大事件は水戸藩がらみがほとんどだ。
 しかし、いつのまにか水戸藩は政局の表から消えていった。それは何故なのか。


〈水戸を没落させた内部抗争〉
 政局の中心にいた水戸藩が没落したのは水戸藩内の内部抗争であった。
 水戸の内部抗争は歴史が深い。その根源は、藩主斉昭が進めた藩政改革をめぐる推進派と保守派の対立であった。
 徳川斉昭は強行に藩政改革を断行。折りしも外国船の到来もあって軍制改革も推し進めた。なにしろ、廃仏毀釈を日本で最初に行ったのも水戸である。
 斉昭は仏像や寺の鐘を鋳潰してそれを大砲などにするという当時では考えられない過激なことまで行った。
 行き過ぎた改革に反発したのは保守派である。
 保守派は幕閣と手を結び藩主斉昭を隠居させ、改革派を退陣に追い込んだ。これは黒船来航以前の出来事である。
 藩政の改革をめぐる抗争は他藩でも良くある話だが、水戸藩の場合この抗争を凄惨にしたのは、尊王だ、攘夷だというイデオロギーが加わったためであろう。
 当時、水戸藩の改革派を「激派」、もしくは「天狗党」と呼び、保守派は「鎮派」または「諸生党」と呼ばれ、その対立はいよいよ凄惨になってゆく。
 水戸藩がらみのテロ事件(桜田門外の変、坂下門外の変、イギリス公使館襲撃など)は激派が引き起こしたものであり、幕府と鎮派は厳しく追求。激派は追い込まれていく。
 追い詰められた天狗党はついに筑波山で挙兵。内部抗争は水戸藩内の内乱に拡大するに至る。
 なぜ、内部抗争が内乱というとんでもない事態に至ったのか。やはり、そこには尊王攘夷というイデオロギーが抗争に介在したことによるであろう。
 尊攘イデオロギーによって動かされる激派の過激な動きは鎮派からすれば、水戸徳川家を潰しかねないものであった。そのため、激派を厳しく弾圧した。それが激派の憎しみを更に煽ることになる。
 抗争にイデオロギーが加わると泥沼に嵌ったように収集がつかなくなる。天狗党の乱はまさにそれであった。
 水戸の内戦は当初、天狗党が優勢であった。
 鎮派は幕府に天狗党の征討を依頼した。また、水戸藩主徳川慶篤自ら天狗党の征討を国許の鎮派に命じた。そしてその命令に反発した藩士が挙兵したりするなど、水戸藩は無政府状態に陥る。
 このような混乱のなか、天狗党征討にやぶれた鎮派=諸生党は水戸に戻って天狗党関係者の家を襲い家族を銃殺するという信じられない事件まで起きた。憎悪の応酬である。
 この年、京都政界では禁門の変が勃発。時代が大きく旋回している最中である。
 しかし、このように内乱状態になった水戸藩にとって中央政界の動きに対応する余裕などなかった。こうして水戸藩は没落してゆくのある。


〈天狗党 西上〉
 激派の首領格、元家老の武田耕雲斎は天狗党と諸生党の戦いが激化すると尊攘派士民を率いて天狗党と合流。耕雲斎は天狗党の盟主に迎えられた。
 那珂湊で、水戸藩兵、幕府軍と衝突。しかし天狗党は敗退した。
 ここで、天狗党は那珂湊を撤退し、京都にいる一橋慶喜を頼って、尊皇攘夷の完遂と賊徒の汚名を晴らそうと上京を決意した。
 10月23日、那珂湊を出発した天狗党は、下野から上州へ出て中仙道を上る。
 途中、上州下仁田で高崎藩兵と、信州和田峠で松本高島両藩兵と戦闘を行った。(和田峠にはこの戦闘で戦死した天狗党の隊士の墓がある)
 美濃の揖斐まで来たとき、幕府の大軍が行く手を阻んでいるという報に接した天狗党は、戦闘を避けるため、越前に迂回した。
 しかし、美濃と越前の国境は難所続きである。
 季節は12月。雪が降りしきり行軍は難儀を極めた。
 やっとのことで越前新保に至ったものの、前方には加賀藩兵1000名が天狗党征討のため布陣していることを知る。
 しかも、征討の命令を下したのが、天狗党が頼みとする一橋慶喜であることを知り、一同愕然とした。
 ここで、どうするべきか。軍議は天狗党にとって主人に等しい慶喜に逆らうこともできず、あくまで素志の貫徹が目的であるから、加賀藩を頼って慶喜に自分たちの意志を伝えてもらうべきだという意見が出た。
 結局この意見が通って、天狗党は加賀藩に降伏を申し入れた。


 〈過酷な処分〉
 降伏した天狗党は加賀藩兵に身柄がとりあえず預けられる。
 取調べの過程で天狗党の窮状と素志に同情した加賀藩は、天狗党のために便宜を図っている。
 武田耕雲斎はじめとする天狗党幹部の嘆願書など慶喜に取次ぎをしたり、物品の差し入れを行ったりするなどかなり好意的な取り扱いであったようだ。待遇も丁重な物であったそうである。
 しかし、元治2年1月末に身柄が加賀藩から幕府に移ると待遇は一変した。
 彼らは敦賀市内のニシン倉に押し込められ(このニシン倉は現存する)、極寒のさなか下帯さえつけられない素裸にされ、蔵の土間にムシロをひいて明かりや窓さえ許されなかった。
 食事も焼きむすびを朝夕に1個づつ。ぬるま湯を与えられるだけという江戸時代の水準から考えても異常なまでの過酷な取り扱いであった。
 これは、いかに幕府が長年、水戸の改革派である激派=天狗党を憎んでいたかをよく表している。
 2月4日、耕雲斎をはじめとする大将分は死罪。
 以下、20日までに、死罪353名、遠島137名、追放187名、水戸渡し130名、寺預け(少年)11名という風に処分された。
 この天狗党の乱の終結をもって水戸藩は完全に幕末史から消滅した。
 ある意味、語り継ぐ人間すら殺してしまったと言っていい。この悲惨さが水戸の幕末史の本質と言えるであろう。
 今回、この稿を書くにあたって水戸天狗党の扱いが小さいことに改めて驚かされた。
 救いようのないような内部抗争。それはまるで近親憎悪にも似た対立にまったく歴史的な意義が見出せないためかもしれない。
 しかし、この対立も結局のところ、リーダー不在であったところが最大の原因であろう。
 確かに、水戸斉昭という強烈なリーダーが居たときは良かったが、斉昭が亡くなると両者の対立が一気に表面化。内戦にまでエスカレートした。
 水戸の悲劇。それはリーダー不在が招いた悲劇であった。



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