武田勝頼
たけだ かつより
1546〜1582
略歴:
武田信玄の四男。信玄死後、武田家の家督を継ぐ。1575年長篠の戦で、織田・徳川の連合軍に大敗。1582年、織田・徳川軍に攻められ追いつめられ自害。ここに名門、甲斐源氏武田氏は滅びる。

 武田勝頼といえば、やはり武田家を滅ぼしたということで、現在に至るまであまり評判は良くない。武勇に長けてはいるが知勇の無い「愚将」だ、と言うのが一般的な見方だ。
 しかし、本当に武田勝頼はそのように酷評されるほどの愚将だったのであろうか。私にはその実像は違うのではないのかと思う。勝頼は父、信玄が最後まで陥とすことができなかった徳川方の遠州高天神城を陥落し、失敗したとはいえ家康の家臣、大賀弥四郎に調略を仕掛け、家康の本拠、岡崎城の攻略を企てるなど父、信玄譲りの才能を多分に持っていたようである。
 もっとも勝頼が当主になってからは頻繁に兵を動かしすぎたことは事実である。彼は絶えず兵を遠州、上州、信州に出しており、最後の方では国力が疲弊していた。
 しかし、武田家滅亡の最大の要因は、家臣団の不和にあり、その根本は信玄にあると考えられる。
 ここで武田家の系図を見ていただきたい。

 系図のとうり、信玄の嫡男は義信である。本来ならば武田家は義信が継ぐはずであった。義信は度重なる川中島の合戦に出陣。信玄の後継者として家臣団からも認められていた人物である。その義信を信玄は殺してしまった。
 永禄3年(1560)、駿河の今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれると、信玄は駿河攻略に動き出す。しかし義信の妻は今川義元の娘である。駿河攻略を企画する信玄に対して義信はこれまでとうりの協調路線を主張。信玄,義信親子は対立した。この対立にいままで燻っていた家臣団の党派の対立が表面化。ついに重臣飯冨虎昌(おぶ とらまさ)が、義信を擁立して信玄の隠居を画策する事件が起きる。
 結局、事件をいち早く察知した信玄が先手を打ち、首謀者、飯冨虎昌を切腹、義信を甲府,東光寺に幽閉、のちに切腹(病死説、自殺説あり)させている。時に永禄10年(1567)のこと。
 義信の死ぬ2ヶ月前に信玄は甲斐、信濃、上野の3国の将士237名から信玄に忠誠を誓う旨の起請文をとっている。この中には信玄の弟の信廉や甥の信豊等、信玄の近親者も含まれていることから一連の義信事件に配下の動揺を防ぐのが目的だったことは間違いなく、逆に言えばわざわざ起請文を取らねばならぬほど家中の動揺が激しかったのであろう。
 義信の死後、武田の後継者は勝頼になる。と、いうのも次男竜芳は生来、盲人であり、また信濃の名族、海野氏へ養子に出ており、3男信之は早世しているためである。
 しかし、信玄の下した決断はやや異なった。
 たしかに、勝頼は武田の後継者になった。しかしそれは一時的なものに過ぎず、正当な世継ぎは勝頼の息子、信勝とし、勝頼は信勝成長までの代行者−陣代−と定めたのである。
 なぜ信玄は勝頼を正式な後継者にしなかったのか。別に信玄が勝頼を嫌っていたと言うわけではない。それはどうも勝頼の出生に原因があるようである。
 勝頼の母は信州諏訪の領主、諏訪頼重の娘である。諏訪氏は諏訪地方をおさめる領主であるとともに、諏訪大社の大祝(おおほうり)の一族である。大祝とは諏訪大社の神職の最高位であり、諏訪明神に連なる家柄であり、一言で言えば「生き神様」としてのあつかいをうけるとのことである。
 その諏訪頼重を武田信玄は攻め、頼重を甲府東光寺に幽閉、これを切腹させ、その娘を妾にした。その間に生まれたのが勝頼である。
 余談だが、信玄の嫡子義信が幽閉されて切腹したのは、東光寺であり、諏訪頼重も同じく東光寺で切腹した。東光寺は甲府市の東部に現存する寺である。東光寺というのは武田家にとって高等政治犯を留置する刑務所のようなものだったのかもしれない。義信と頼重の墓は並んで安置されている。
 武田の家中とすれば、自分達が滅ぼした諏訪氏のしかも神に連なる娘の子である勝頼は、武田に仇なす子供という空気が誕生の時からあったように思われる。自然、勝頼を敬遠する空気が武田の家中にあったのではあるまいか。
 実はこの辺の事情は確証がない。しかし、そのように考えなければ勝頼を、信勝成人までの陣代にすると言う信玄の決定が納得できないのである。
 義信が健在であれば問題はなかった。義信が武田を継げば勝頼は名門諏訪氏を復活させて諏訪氏を継げば何事も無かったにちがいない。
 しかし、義信が死んでからは武田の後継者問題は表面化する。このような事態となれば、普通ならば文句なく勝頼が後継者である。だが、武田家中には勝頼忌避の雰囲気があり、信玄もこれは無視できない。そこで後継者はまだ幼い信勝とさだめ、勝頼をその陣代とし、一応の解決を計った。まあ問題の先送りである。
 さらに、勝頼にとって不幸だったのは、しかるべき官位が無かったことである。信玄の場合だと朝廷より、従五位下、大膳大夫と言うちゃんとした位をいただいている。だから彼の正式名は、
    武田大膳大夫晴信入道信玄
と、長いものになる。
 ところが、勝頼は死ぬまで官位がなく、
    武田四郎勝頼
である。これではただの武田家の四男坊である。
 武田家は元来、源氏の棟梁、源義家の弟、新羅三郎義光を祖とする武家の名門中の名門である。その名門の当主もしくは世継ぎともなれば、それ相応の官位をもらうことは外交上は当然のこと家中の安定を図る上でも必要不可欠であった。それがなかったのは、勝頼が家中を統率するうえで大きなハンデエになったことは否定できない。
 天正元年(1574)信玄死す。53才である。遺言により信玄の死は3年間隠され、勝頼が武田家を治める。この間武田の家中は表面上は何事もなかったが、家中の不和は続く。すなわち勝頼を正当の当主としてみとめずあくまでも陣代であるいう姿勢を崩さず、内心馬鹿にする、一族衆・譜代衆。勝頼は陣代とはいえ正当な当主であると主張する勝頼の側近たち。信玄時代「人は石垣、人は城」と団結を誇った武田軍団は大きな亀裂が生じていた。
 天正3年(1575)長篠の合戦。織田徳川3万に対し、武田軍1万5千。兵数では劣る武田軍が決戦を挑んだのもいろいろ理由があるが、ここで一大合戦を行い家中の統率力を一気に高めたいという勝頼の思惑があったように思われる。
 しかし、結果は思いのほかの大敗北。内藤、山県、馬場、真田といった宿老たちは戦死。武田家は衰退の道をたどる。
 その衰運を挽回せんと勝頼は盛んに遠州、駿河、上州に兵を送るが国力を疲弊させ、さらに家臣団の亀裂を大きくした。
 天正10年(1582)織田信長は徳川家康、北条氏政にはたらきかけ、武田討伐の軍をおこす。このとき織田軍に抵抗したのは勝頼の弟、仁科盛信だけであり、一族の武田信廉や武田信豊は城を捨て逃亡する。
 もはや、甲府を支えきらぬと見た勝頼は大月の小山田氏を頼って敗走したが、大月の入り口笹子峠を越えようとしたとき肝心の小山田氏が寝返ったため、峠の手前の天目山中を彷徨。織田方の追手と戦って、ついに自害する。この時最後までしたがって戦ったものわずか40数名。武田勝頼37才である。
 名門武田家の滅亡は勝頼ひとりの責任ではない。義信事件の対処を怠った信玄にむしろ原因があるように思えてならない。
 山梨県大和村。ここに景徳院という寺がある。武田一族が滅びた地に徳川家康が菩提を弔うために建てた寺である。この境内に勝頼、信勝、勝頼婦人がここで切腹したとつたえられる「生害石」がある。今見ても樹木が鬱蒼として寂しいところである。こんなところで名門武田家は滅びたんだなあと思うと感慨深い。また、最期の直前、勝頼が当時16才になっていた信勝に家督を譲り、その儀式に使用したといわれる松の木も境内にある。この日、このようなかたちで家督を譲らねばならない勝頼の胸中はさぞ複雑であったであろう。



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