藤堂高虎
とうどう たかとら
1556〜1630
略歴:
戦国武将  近江出身。

 江戸時代の末、慶応4年(1868)1月、幕府軍と薩摩、長州を主力とする新政府軍が京都の南郊、鳥羽伏見で激突した。世に言う「鳥羽伏見の戦い」である。戦況は幕府側に利あらず、朝廷が薩長軍を官軍と認めたことによって勝敗は決した。
 鳥羽伏見で戦っていた幕府軍は、態勢を立て直すために大坂へ退却。途中、山崎天王山にさしかかった。山崎天王山は幕府方、藤堂藩の陣地である。そこから、突如、砲門が火を噴き、退却中の幕府軍に砲弾が落下した。裏切りである。これによって幕府軍は壊滅。将軍徳川慶喜は戦意を失い大坂を逃亡。この戦いの勝利により、薩摩、長州は戊辰戦争の主導権を握るのである。
 この藤堂家の裏切りを、世の人は、
 「さすがは藤堂。藩祖高虎以来の裏切り上手」
 と、うわさした。
 「裏切り上手」と言われた藤堂高虎。いったいどんな人物であったのであろう。
 戦国の時代、「七度、主君を変えねば侍とは言えぬ」ということが言われたが、それを地でいったのが藤堂高虎である。
 まず、仕えたのは、阿閉淡路守という近江の小豪族に仕え、次いで磯野丹波守に仕える。この当時高虎は槍一本、具足一領のただの侍にすぎない。しかし、磯野家も先に望みが無いと見るや、さっさと退転している。生来、武辺一筋ではなく、頭が切れ、目端が利いたのであろう。
 次に仕えたのは、織田信長の甥にあたる織田信澄。しかし、信長が本能寺に倒れるや、その混乱の最中、織田信澄は殺される。信澄の岳父は明智光秀にあたり、明智と共謀して謀反を起こすというデマが飛んだために、織田方の武将に先手を打たれて殺されたのだ。
 いずれにしても、高虎は浪人となり、今度は羽柴秀吉の弟、羽柴秀長に仕える。ここで、高虎は300石。ようやくひとかどの武士としての待遇である。
 しかし、今度は秀長が病死する。秀長の死後、高虎を拾ったのは秀吉である。秀吉は彼を伊予板島(現在の宇和島)8万石の大名に取り立てた。高虎の能力を高く評価したのであろう。
 高虎は、その武勇もさることながら、政治にも長けていた。また築城の名人とも言われた。しかし、彼の本領は折衝の才であった。この当時、諸侯の間では「交渉事は佐渡守(高虎)に」と言うのが定評になっていた。
 秀吉の存命中から高虎が次の天下人と睨んで接近した人物がいる。徳川家康である。なぜ家康が次に天下を取ると高虎は考えたのか。それは秀吉に後継者がいなかったからに他ならない。秀吉の息子秀頼は幼く、先行きは不安である。となれば諸侯の中で家康は軍事力、経歴ともに一頭抜きん出ている。考えてみれば当然の思案の結果であるが、秀吉の生前からそこまで考え家康に接近した大名は高虎一人である。主君を何度も変えた彼の鋭い嗅覚がそのようにさせたのであろう。
慶長3年(1598)、秀吉が死ぬ。高虎はまるで家康の家来のように動く。現に高虎は家康に「それがしをご当家のご家来同然にお使いくだされ」と家康に言う。家康の警護にあたったり、豊臣系の諸侯を内偵させたり徳川方に付くようにしむけたり、家康が頼みもしないのに家康のために画策している。この豊臣を平然と見捨てて家康に靡くさまが「へつらい大名」「日和見」「ごますり」という評価を得ることになる。
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦。東軍に参陣した高虎は大谷吉継と激突。その戦いの最中に前もって内応の確約を取っていた脇坂安治に合図を送りこれを寝返らせ東軍勝利を確定した。
 この一連の働きで家康の信頼を受けた高虎は伊予今治20万石。慶長13年には伊勢、伊賀22万石を得る。その間家康より豊臣攻略の諮問を受け、江戸城、伏見城、丹波篠山城の設計に関わるなど、家康秀忠親子から絶対的な信頼を得る。
 やがて大坂の陣。高虎は冬の陣、夏の陣ともに先鋒をつとめる。このことが先例となって「譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂」というのが徳川幕府の軍法となった。
 家康の死後も、秀忠、家光に仕え「和泉守(高虎)がおらねば寂しい」と言わしめる程であった。それゆえに、「からすの鳴かぬ日があっても高虎が登城せぬ日は無い」と言われるほどであった。
 寛永7年(1630)高虎は75年の生涯を閉じる。
 最後に、高虎のエピソードから。
 家康最晩年のころ、外様大名の取り潰しや国替えが取り沙汰されていた。そんなころ駿府の家康のもとに高虎がやってきた。高虎は家康の家臣、土井利勝に、
 「それがしも老い果てる年になりました。しかし、せがれ大学頭(実子高次)は不出来でござる。とても国は保てませぬ。それがし死後はすみやかにお取潰しくださいますよう」
 と申し出た。利勝は驚いて家康に言う。
 家康は高虎を招いて
 「たとえそちが死んでも、そちが多年手なずけた家老が多い。大学頭不肖と言えども国を保てぬことはあるまい。永世に伊勢、伊賀32万3千9百50石は藤堂家のものぞ」
 といった。この一言を得るために高虎はわざわざ申し出たのである。このおかげで藤堂家は改易も国替えも減封もなく明治維新を迎えるにいたる。



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