真田昌幸
さなだ まさゆき
1545〜1609
略歴:
真田幸隆の3男。安房守。信州上田城主



真田信之
さなだ のぶゆき
1566〜1658
略歴:
真田昌幸の長男。伊豆守。有名な真田幸村の兄にあたる。最初は信幸と名乗るが関ケ原合戦後信之と改名。のち、信州松代城主

 真田昌幸といえば信州の小大名でありながら、上杉、北条、徳川といった戦国の大勢力を生き残りを賭けて手玉にとった人物である。
 もともと昌幸は武田家に仕えていたが、天正10年(1582)3月に織田信長によって武田家が滅ぼされると、そのまま織田家に仕えた。しかし信長が6月に本能寺の変によって倒れると、状況は一変する。主の無くなった甲斐、信濃、上野は徳川、上杉、北条の3大勢力の草刈場となったのである。昌幸は信州小県と上州吾妻の所領をかけて北条、上杉と主君を転々と変える。そして最後に頼ったのが徳川家康であった。
 しかし、天正13年(1585)、突如家康は昌幸に上州沼田の北条氏への明け渡しを命じる。と言うのは徳川と北条の講和がなってその条件に沼田は北条家のものにするという取り決めがあったためである。
 突如のこの命令に昌幸は不服を申し立てる。上州沼田はもともと昌幸が知略と血と汗を流してとった領土であり真田家固有の領土である。家康から与えられた領土ではない。ここで昌幸は家康に離反。今度はかつて寝返った上杉景勝を頼った。
 考えてみれば、かつて後ろ足で砂をかけるようにして去った上杉を再び頼った昌幸も凄いが、それを受け入れた上杉景勝と言う人物も度量が大きいと言うか、なんと言うか。
 激怒した家康は真田討伐を命じる。大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠に兵を与え上田城を攻めさせたが、昌幸は変幻自在な策略で徳川の大軍を手玉にとり、これを見事に破っている。それ以来徳川の家中に「真田恐るべし」と知らしめることになる。
 徳川、真田の争いは、結局豊臣秀吉の仲介により決着する。このとき昌幸の長男真田信幸は、家康の養女、小松姫を妻に娶る。家康の養女とはいえこの小松姫、家康の重臣で猛将本多平八郎忠勝の娘で、のちに面白いエピソードを残すのだが、のちに紹介しよう。
 その後、次男幸村は秀吉の家臣大谷吉継の娘を妻にめとる。これにより真田家は、徳川豊臣の両方に縁が深くなったのである。
 さて関ケ原の合戦である。
 昌幸は、家康の上杉討伐軍に加わり下野の国犬伏(栃木県佐野市)に陣を布いた。そこへ石田三成からの密使が到着した。
 「このたびの家康の上杉討伐は、秀吉公の遺言に背いて秀頼様を見捨てたもので、相談のうえ家康を討つべく挙兵した。太閤様のご恩を忘れてないのなら、秀頼様に忠節を尽くしてくれるように」という勧誘状である。
 昌幸は、信幸、幸村の2人の息子を呼んで密談した。
 信幸は三成に勝ち目はなく家康に付くべきと主張し、昌幸は三成に加担して家運を開くべきだと主張した。そして話し合いは平行線をたどる。そして、
 「伊豆守(信幸)は徳川につけ。わしと左衛門左(さえもんのすけ=幸村)は石田につく。いずれが勝っても負けても真田の家名は残る」
 と、昌幸は決断した。いかにも戦国を生き抜いた昌幸らしい結論であった。こうして真田家は親子で分裂して戦うことになったのである。
 じつは、この関ケ原の合戦において一族が生き残りを賭けて分かれて戦ったのは真田家だけでは無かった。阿波の蜂須賀氏、志摩鳥羽の九鬼氏などがそうである。関ケ原合戦のような大合戦を前に家名の存続をかけて一族が争わなくてはならない家もあったのである。
 西軍への加担をきめた昌幸、幸村親子は犬伏の陣を引き払い、居城上田をめざしていたが、途中信幸の居城沼田を通過した。
 昌幸は何を思ったか、城を守る長男夫人小松に使いして、
 「孫の顔を見たい。城に入れてくれ」
 と、言ったが、小松は自分の夫が居ないことを怪しみ、
 「いかに父上様のおおせなりとも、夫伊豆守の許しなくして城門を開けることはできませぬ。強いて開門したいとのお考えならば弓矢をもって御応酬つかまつる」
 と、口上をのべた。
 このあいさつに昌幸は、「さすがは本多平八郎の娘よ」と、苦笑せざるを得なかった。
 さて美濃の戦場をめざして中仙道を進軍してきたのは家康の嫡子徳川秀忠である。その陣容は本多、榊原、酒井、大久保、牧野といった徳川軍3万8千の精鋭である。
 秀忠の進軍する中仙道から少し入ったところに上田城がある。小諸に陣を布いた秀忠は上田城の昌幸に降伏勧告の使者を送った。使者は小松の兄にあたる本多忠政と信幸である。
 2人に会った昌幸は降伏の姿勢を見せたが数日たっても城を引き渡さない。秀忠が改めて使者を送ると昌幸は、「攻めるならせめてみよ」と挑発的な態度をとる。激怒した秀忠は9月5日、軍を上田に進め上田攻略を命令した。
 秀忠軍の先鋒の真田信幸は上田城の出城、砥石城を攻め落とした。まあ攻め落としたと言えば聞こえはいいが昌幸が信幸の立場を考えて守備兵を撤退させたというのが真相であろう。
 砥石城の攻略に余勢をかった徳川軍は一気に上田城を攻め落とそうと城下に攻め寄せたが、またしても昌幸の術中にはまり、またしても昌幸の前に徳川勢は大敗を喫した。しかも秀忠は上田攻略にいたずらに時を費やし、ついに関ケ原の本戦に遅参するという大失態を犯してしまったのである。
 このことは秀忠は終生根に持ち、真田家を恨みに思ったという。
 昌幸は勝ったが、肝心の関ケ原において西軍が敗れたため昌幸は敗者となった。家康はこれを機に宿敵昌幸を殺そうとしたが、信幸の必死の嘆願により紀州九度山に流罪とした。その後、昌幸は許されることなく幸村とともに九度山で暮らし関ケ原から9年後の慶長14年(1609)64歳の波乱にとんだ人生を閉じた。しかし、家康打倒の意志は幸村に受け継がれるのである。
 家康が昌幸を死ぬまで許さなかったのは昌幸の軍略を恐れていたからであろう。家康が昌幸を恐れていたことを示す逸話がある。
 大坂冬の陣の直前のことである。家康のもとに真田が大坂に入城したという報告が入った。ちなみに言えばこのときすでに昌幸は死んでおり、大坂城に入ったのは幸村である。
 「真田が大坂に入った」という知らせを聞いたとき家康は杉戸を開けようとして戸に手をかけていたらしい。その杉戸がガタガタと音がした。家康が震えていたのである。やがて家康は使者に、「親か息子か」ときいた。使者は、
 「息子にて候」
 と、言うと家康は安心したという。
 勝った信幸もなまじ昌幸が奮戦したために、徳川家中においての立場は微妙であった。関ケ原の合戦の功により上田を与えられたが、信幸は名前を「信之」と改名する。昌幸と同じ「幸」の字が入っていることに、徳川家に遠慮したのであろう。
 信之に好意的であった家康の代のころは良かったが、真田に恨みをもつ秀忠の代になると大変であった。特に大坂の陣において信之が弟幸村に内通したと言いがかりをつけ真田家を取り潰そうとしたが、それが失敗すると真田家を上田から信州松代へ国替えを命じた。松代は当時、河川の氾濫などにより痩せた土地であった。あきらかな左遷である。しかし、これら厳しい徳川の政策をよく耐えたのである。
 3代将軍家光の代になると、家光は「伊豆守は天下の飾りである」といって再三の信之の隠居願いを許さず、ついに92歳まで現役の当主をつとめた。この間松代において真田家の基礎を固め、ついに明治維新まで続く松代真田10万石の基を築いたのである。
 明暦4年(1658)、松代城外、柴村の隠居所で信之は死ぬ。享年93歳である。
 さて、真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていた。家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がいた。中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、明治になって開けたときとんでもないものが入っていた。なんと石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていたころの危険な証拠書類が詰まっていた。これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていたにちがいない。従順温和といわれた信之が危険な証拠書類を焼却せず、わざわざ不寝番をおいて秘蔵し、後世に伝えたのは仇敵であった徳川家に対する反骨精神のあらわれであろうか。



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