毛利輝元
もうり てるもと
1553〜1625
略歴:
従三位 権中納言 毛利隆元の長男。毛利元就の孫。織田信長に代わって天下を取った豊臣秀吉に属す。
九州征伐に参加。朝鮮の役に渡海。五大老の一人。
関ケ原の合戦において、西軍の盟主にまつり上げらる。敗戦によって周防、長門の二カ国に減らされる。

 この項は、しばらく関ケ原の合戦に関係のあった人物を取り上げている。まあ「葵 徳川三代」もやっていることだし、今年は関ケ原合戦400年ということでしばらく続けさせていただく。
 毛利輝元は毛利隆元の嫡子、元就の孫である。毛利隆元は輝元の幼少の頃に病没し、幼くして毛利家当主となっている。と、言っても祖父元就は健在だったため毛利家が幼少の当主を迎えても大過はなかった。元就亡き後も叔父の吉川元春、小早川隆景が、補佐した。これを、吉川小早川の「川」をとって『毛利両川体制』という。
 輝元の毛利家にとって最大の危機だったのは織田信長との対決であった。織田家の中国攻略司令官は羽柴秀吉。秀吉は次々と毛利方の城を攻略した。天正10年(1582)、秀吉は備中高松城を水攻めし、輝元はこれを救うため吉川元春、小早川隆景の3万の軍勢を率いて決戦をいどんだ。毛利本軍の高松来援を察した秀吉は信長に出馬を要請。毛利織田の決戦は目前に迫っていた。天下を手中に収めつつある織田の大軍に対し、毛利軍が衝突した場合敗北は免れなかったであろう。
 その矢先、織田信長が本能寺の変に倒れる。これにより織田、毛利の勢力の均衡は逆転した、いやするはずだった。この知らせを毛利方より先に手に入れたのは敵将、羽柴秀吉である。秀吉は早急に毛利と講和。あっという間に引き返す。そのあとに輝元のもとに本能寺の変の知らせが入る。講和を破棄して秀吉を追撃しようと言う意見もあったが、小早川隆景は秀吉との講和の保持を主張。輝元はこの意見を採用した。これが結果的に幸いした。
 やがて、秀吉は天下を取る。天下を取った秀吉は、本能寺の変で追撃しなかった毛利家に恩を感じ優遇した。分家の小早川隆景に筑前、筑後の2カ国をあたえ、輝元とともに五大老の一人にしている。毛利一門本家、分家をあわせれば相当な力となったに違いない。
 輝元は「両川体制」によって大過なくすごしてきた。しかし、吉川元春、小早川隆景が亡くなるとそれに代わったのが、元春の息子の吉川広家と安国寺恵瓊である。広家は軍事を、安国寺恵瓊は外交を担当したがこの二人大変仲が悪い。これが毛利家の関ケ原における敗因になる。
 関が原の合戦に先立って石田三成は輝元を西軍の総大将に担ぎ出す。その工作を行ったのが安国寺恵瓊である。石田三成は輝元担ぎ出しに際し、筆頭大老の地位を確約したと言われる。
 輝元が西軍の総大将になることによって、島津義弘、小早川秀秋、長曾我部盛親、立花宗茂、宇喜多秀家といった西国の大大名が西軍に加担した。大毛利の信用と言っていい。
 しかし、その大毛利の内実は惨憺たるものであった。作戦参謀の吉川広家は東軍に内応していたのである。広家は広家なりに毛利家の安泰を願ってのことである。しかし古来総大将が敵に内応するなど聞いたことが無い。輝元がもっとリーダーシップをとっていれば違っていたであろう。
 関ケ原の合戦には輝元は大坂城を動かず、養子秀元が2万の大軍をひきいて参加している。しかし、東軍に内応している吉川元春は軍勢を動かさず、毛利家の関ケ原は一兵も動かすことなく敗れる。
 関ケ原の戦後処理は毛利家にとって過酷なものであった。仮にも西軍の総大将である。一時はお家断絶ということに決まったが、吉川広家の必死の嘆願もあって120万石から周防、長門32万石に減封された。しかも、居城は山陰の萩におしこめられた。
 広島から萩に移っても家臣たちは離れることなく従ってきた。領地が4分の1になったため家臣たちの生活は当然苦しい。毛利の家臣は歯を食いしばってこれに耐えた。毛利家(長州藩)が重商主義をひいて実質100万石の力をつけたのは遥か後、幕末に近くになってのことである。
 さて、毛利家が幕末まで伝えた秘密の儀式がある。
 毎年正月、家老が藩主に向かって言う。
 「徳川討伐の支度整いましてございます。いざ、出陣のお下知をくださりますよう」
 しばらく沈黙の後藩主は答える、
 「今年はその時期にあらず。隠忍自重し時を待ち、武道に励むよう」
 このような儀式が300年にわたって続くのである。なんだか鬱憤ばらしのような気がするが。まあこのようにして幕末、討幕の主力となった長州藩の気風が形成されていったのである。



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