前田利家
まえだ としいえ
1538〜1599
略歴:
加賀100万石の祖。
早くから織田信長に仕え、各地を歴戦。柴田勝家の組下大名として七尾城を領した。
賎ヶ岳の合戦では親友の秀吉と提携。
秀吉の晩年、五大老の一人として徳川家康に次ぐ実力を有した。

 今年の大河ドラマは前田利家。そこで前田利家について。

 しかし、大河ドラマって戦国モノしかあたらないのか?ウケが悪いとすぐ戦国モノに戻ってくる。まあ合戦シーンだけで視聴率が稼げるからいいのか知れないが。
 もっともこの時代、ドラマのネタになるのに十分なだけ人材が輩出したことは事実。ドラマのネタぎれになることはない。
 ついで言っておくと、なぜこの人が大河ドラマにならないのだろうというのが、北条早雲。徒手空拳で大名にのし上ったのは、斎藤道三にならぶ。まさに「国盗り物語」だ。
 もっとも、この早雲という人物。これだけの大物でありながら意外と資料が少ない。なにしろ出身地から、本名にいたるまで諸説はあっても実のところよくわからない。
 この辺がドラマになりにくいのかもしれない。
 ちなみに早雲役はだれがいいか。もう少し若かったら佐藤慶か、それともヒラ幹(平幹次郎)か。緒形拳も捨てがたい。意外と中井貴一もいいかもしれない。まちがっても若いヒヨヒヨした役者を使うなよ、NHK。

 えっと。何の話かと思ったら前田利家の事でしたね。

 幼名、犬千代。通称、又左衛門。略して又左(またざ)。
 尾張の国愛知郡荒子の土豪、前田利昌の4男に生まれた利家は、織田信長の小姓に14歳で勤めた。当時信長18歳。
 この年、元服した利家は尾張海津の戦いで初陣し、さっそく敵将の首をあげたというから、信長も「肝に毛が生えとるわ」と感心したらしい。
 もっとも、このころ、信長と利家はナニの関係にあったらしく、(このことは利家自身が語っている。もっともこの当時、男色はごく普通のことであったらしい)その点でも、利家は信長の寵愛を受けていたらしい。

 しかし、信長の同朋衆十阿弥と言う者が、利家の刀の笄(こうがい=携帯用の櫛のようなもの。刀に付随する)を盗んだので斬り捨てた。
 このため、信長の怒りを買い追放させられた。浪人になったのである。
 
 追放された利家だが、帰参の機会を狙い永禄3年(1560)の桶狭間の合戦には槍ひとつを担いで参加。敵将の首を3つもあげる手柄をたてるもなお信長の許しを得られず、翌年の美濃攻めの折、美濃方の足立六兵衛という剛の者を討ち取る手柄をたててやっと帰参がかなった。
 
程なく、利家は赤母衣(ほろ)衆に抜擢される。
 これは、信長の命令を、矢弾飛び交う戦場の中を走り回って伝える役目で、赤い母衣を甲冑の上からまとうからよく目立つ。ちなみに母衣とは今で言うマントのようなもので、これを許されるのは特に武功優れた者のみであったと言われる。時に利家24歳。
 
 しかし、ここまで見て思うのは利家という人物は短気者で、槍一筋の暴れ者という感じを受ける。現に若いころは異様な風体を好みカブキ者と言われ、「又左と喧嘩をするな」と言われたらしい。下手に喧嘩すると大怪我をするか、下手をすれば本当にブチ殺されるまで喧嘩が収まらなかったに違いない。
 もっとも、「花の慶次」ことカブキ者前田慶次郎は、利家の甥にあたるが、実は若き日の利家はそっくりそのまま「花の慶次」であったわけだ。
 しかし、このような人物がどうして大名に成り得たのであろうか?
 大名になってやっていくには、武功のみならず、政治力や、家臣団を養う経営力が必要になる。
 この点どうも最初から利家にその才覚があったとは思えず、やはり影で賢夫人まつの力があったと思われる。
 もっとも、実直で明るい人柄は織田の家中から信頼を集め(喧嘩ぱやっくて短気者なら家中の鼻つまみ者になってもおかしくないのだが、それを上回る魅力があったのでしょうな)、なかでも柴田勝家、佐々成政、羽柴秀吉などから、信頼された。その点で利家は大きく得をすることになる。

 信長の勢力が拡大するにつれて利家は多くの合戦に従事し、柴田勝家が北陸方面の司令官になると、佐々成政らとともに勝家の配下として北陸の攻略に専念する。天正9年(1582)には能登一国を与えられ、七尾城主として23万石の大禄を得ることになる。

 しかし、運命の転機が訪れる。
 天正10年(1582)6月、信長が本能寺で明智光秀に討たれる。
 この報を聞いたとき、利家は柴田勝家とともに越中において上杉景勝と合戦中であった。
 勝家としてはすぐさま軍を返して光秀の討伐を行いたいところであったが、合戦中ではいかんともしがたく、虚しく時を費やしているうちに、羽柴秀吉が光秀を討ち取ってしまう。

 織田政権の勢力をめぐって、秀吉と勝家の対立は激化する。その中で、利家は両者の仲介を行っている。
 利家にとって、勝家は古くからの先輩であり上司でもある。しかも勝家という人物は豪勇を以って知られた人物であるから、武功派の利家とはウマが合った。
 一方の秀吉は、おたがい身分が軽かった頃からの付き合いである。しかも、利家の妻まつと、秀吉の妻おね(ねね)とは親友同士、しかも利家の娘豪は秀吉の養女にもらわれていた。いわば家族ぐるみの付き合いだ。両者の間で板ばさみにあって、律義者の利家としてはつらい立場であった。

 天正11年(1583)4月、柴田、羽柴両軍は江北賎ヶ岳(しずがたけ)で激突した。この時、利家は勝家の配下として賎ヶ岳に出陣している。
 合戦は柴田勝家の先鋒、佐久間信盛が勝家の命令を聞かずに突出し、そこをいきなりあらわれた秀吉軍の本隊が佐久間隊を捕捉したところから始まった。捕捉された佐久間隊は総崩れをおこし、それが柴田軍全体に波及した。

 しかし、柴田勝家軍の敗北を決定的にしたのは、第二陣に控えていた利家が佐久間隊の崩れたのを見るや、勝手に戦線を離脱し、居城の越前府中(現在の武生)へ引き上げたことであった。これは、消極的ながらあきらかに裏切りであった。
 この利家軍が戦場より撤退するのを見て、はやくも佐久間、前田が破られたと思った柴田軍はにわかに恐慌し、ついに全軍総崩れとなって越前へと潰走した。
 戦い敗れた勝家も、居城の越前北ノ庄(現在の福井市)に落ち延びる途中、利家の府中の居城を訪ねた。
 この時、利家の家臣が勝家を捕らえて秀吉に差し出してはと言ったが、利家は「そのような卑怯なマネはできぬわい」と一喝して退けた。
 勝家は利家に会うと「又左どのは筑前(秀吉)と親しいゆえ、筑前と和睦して前田家の安泰を図るがよかろう」と言って、窮地に陥った利家に情けある助言を行ったという。
 ちょっとできすぎた話のような気がするが、意外と勝家と利家の間柄ならばこういうやりとりもあったかもしれない。

 賎ヶ岳の合戦後、秀吉は勝家を追って北ノ庄城を攻め、勝家を攻め滅ぼした。秀吉は利家に対し、能登1国の他に、加賀の石川、河北の2郡を与えた。利家は加賀の尾山(のちの金沢)を居城とした。

 その後、利家は反秀吉にまわった隣国の越中富山の城主、佐々成政と争うことになった。
 とくに、天正12年(1584)、前田方300人が守る末森城に佐々成政8千の軍勢が攻めてきたとき、家臣の一部は尾山の本城を守って秀吉の援軍を待つべきという意見を述べたが、「末森の城を見殺しにはできん」と利家は言って2500の兵を率いて末森城に馳せつけた。そして、佐々軍の背後から奇襲攻撃を行い、みごと佐々軍を越中に追い返したのである。

 秀吉が天下を取ると、佐々成政から領国越中を没収し利家に与えた。このため前田家は加賀、能登、越中にまたがる80万石の大大名となり、後の加賀100万石の基礎を築いた。

 豊臣政権下では五大老に任じられ、石高こそ徳川家康の250万石、毛利輝元の120万石、上杉景勝の120万石につぐ4位であったが、官位は家康に次ぐ権大納言に任じられ、実質家康に次ぐ地位を得ていた。
 これは秀吉が利家を深く信用していたに他ならず、利家の誠実な人柄と歴戦の武功が家康を抑え、豊臣政権の重鎮としての役割を果たしてくれると考えたのであろう。後に秀吉は、世継秀頼の後見役に利家を指名している。

 慶長3年(1598)秀吉が死ぬと、家康は天下とりの策謀をめぐらす。これに対し石田三成はこの策謀を阻止せんと、利家を担いで反対行動に出る。
 利家との抗争を恐れた家康は、利家と和解した。しかし、この頃病を得ていた利家は、一連の家康との交渉に無理が祟ったのか病勢にわかに進み、慶長4年(1599)閏3月3日、大坂の屋敷において利家は亡くなった。享年62歳。

 利家の死はその後の政局に大きく影響した。以前からくすぶっていた豊臣家内部の武功派と文官派の争いは、利家という重石がなくなって一気に噴出し、それに乗じて家康は天下盗りの策謀をおおっぴらにめぐらす。
 最早、その動きをとめるものはなくそのまま関ケ原の合戦へと政局は流れていくのである。

 最後に利家の最期のエピソードを。
 最早これまでと、まつ夫人は、利家が戦場で多くの人間を殺してきたことから、あの世に行っても地獄に落ちぬようにと自分で縫った経帷子(きょうかたびら)を着せようとしたが、利家はフフンと笑って、
 「確かにワシは戦場で人を殺したが、故なく人を殺めたことはない。もし地獄に落ちても、先に死んだ家来たちを集めて鬼退治をしてくれるわい。それよりも気がかりなのは秀頼様のこと。もう少し寿命があったら秀頼様の行く末の見極めがつくものを・・・」
 と、言って傍らの新藤五国光の脇差を鞘ぐるみ胸に押し当てて死んだ。
 武人利家らしい最期である。



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