黒田如水
くろだ じょすい
1546〜1604
略歴:
通称 官兵衛 本名 孝高(よしたか)
  播州姫路生まれ。豊臣秀吉の参謀。



黒田長政
くろだ ながまさ
1568〜1623
略歴:
如水の子。甲斐守。従四位下筑前守
  秀吉の朝鮮の役に参加。石田三成と対立。関ケ原の合戦には徳川家康につく。戦後、筑前52万石福岡城主となる。

 黒田如水は豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師である。
 如水はもともと播磨御着の豪族、小寺氏の家老であった。しかし、この男が油断できないところは地方豪族の一家老に過ぎない身ながら、織田信長に近づいていたことである。この当時、播州の豪族は毛利氏に加担していた。周囲を敵に回しながらも織田に気脈を通じたのは、来るべき織田、毛利の合戦に織田の勝利を確信したのであろう。結果的には、信長は本能寺の変に倒れたが、それまでは、ほぼ如水の読みどうりに推移した。如水の情報分析能力は群を抜いていた。
 織田軍の中国方面軍司令官と言うべき人物が羽柴筑前守秀吉。後の豊臣秀吉である。如水は秀吉の部下として仕えることになる。三木城攻略、鳥取城の攻略など秀吉の中国攻略に活躍する。
 さて、天正10年(1582)6月。本能寺の変にて織田信長、明智光秀に討たれる。この時秀吉は備中高松城を水攻めの真っ最中であった。そこへ信長死すの知らせが届く。秀吉は慟哭して悲しんだ。そんな秀吉へ如水は言う。
 「ご運の開かせ給う時なり」
これは、謀反人明智光秀を討った者が天下を取る事をさす。そしてこれは同時に秀吉の本心をつく一言であった。
 山崎の合戦で秀吉は明智光秀を討ち天下を取る。しかし秀吉は如水を油断ならない男と警戒していた。如水の智謀・謀才を恐れたのである。
 秀吉が天下を取ったあとの話である。
 あるとき秀吉は家来を集めて言う。
 「おれが死んだあと天下を取るのは誰だと思う」
 家来は口々に、徳川家康、前田利家、毛利輝元と大大名の名をあげる。
 しかし、秀吉はそれをいちいち否定して、
 「おれが死んだあと天下を取るのは黒田のちんばよ」
 ちなみに如水は足が悪かった。ゆえに秀吉から「ちんば」と呼ばれていた。(今ではこの言葉、放送禁止用語であろう。しかしこの当時このような言葉が実際に使われていたのである。あえてここでは原文どうり使う)
 「しかし、官兵衛どのはわずか19万石ですが」
と、家臣は言うが秀吉は、
 「あのちんばに百万石の身上を与えてみよ。わしが生きている間に天下を取ってしまうわい」
このやりとりを聞いた如水は秀吉に警戒されていることを恐れ隠居する。ちなみに如水という名は隠居後の名前である。
 如水隠居後の黒田家を継いだのは嫡子、長政である。
 長政は父如水と変わって勇猛な武将である。朝鮮の役のとき一軍の将でありながら朝鮮兵と組討することすらあった。もっとも如水はこのことを聞いて、
 「一軍の大将にあるまじき軽々しいふるまい」
 と非難している。
 そのような性格であったから、加藤清正、福島正則とならんで豊臣家武断派に連なり、石田三成の文治派と対立する。
 慶長3年(1598)秀吉死す。秀吉の死後、豊臣家武断派と文治派の対立が表面化。その武断派の後押しをして豊臣家を分裂し、天下とりを画策したのが徳川家康である。その家康の後押しをしたのが黒田長政である。
 黒田長政は加藤、福島ら武断派を家康のもとに結束させた。それが後の関ケ原の合戦の東軍の主力となるのである。
 慶長5年(1600)5月、家康は会津の上杉景勝の討伐の軍を起こす。長政は参陣する。石田三成挙兵の知らせが上杉討伐軍に届いたには野州(栃木県)小山の陣においてである。
 家康は豊臣恩顧の武将を集めて、徳川につくか、石田につくか協議させる。世に言う小山評定である。
 この軍議に先立って長政は福島正則を説得する。
 「治部少(三成)の挙兵の本心は豊臣家に成り代わり天下をとるためである。内府(家康)に協力して治部少を討つべきである!」
 小山評定では長政の説得をうけた正則が家康に加担することを表明。それをうけてその他の豊臣恩顧の大名も家康につくことを誓った。
 さらに、長政は西軍の小早川秀秋、吉川広家の内応をとりつけた。
 慶長5年9月15日、関が原の合戦。戦況は福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名の奮戦、小早川、吉川の内応により家康は合戦に勝った。家康圧勝の要因は長政の働きが大きかった。
 息子長政が、家康の勝利にあれこれ画策していた頃、父如水は領国の九州豊前中津にいた。病気療養と称して中津へ帰っていたのである。しかしこの男の油断ならぬ点は、上方と九州の間に早舟を何艘か置いておき上方の情報が逐一入るようにしておいたのである。
 三成挙兵の知らせを聞くと如水は長年蓄えておいた金銀を惜しげも無くばらまき兵を集め挙兵する。そして、豊後中の西軍の城を落としにかかる。如水挙兵から関ケ原の合戦までの半月間でほぼ豊後一国を制圧した。
 如水は決して家康のために挙兵したのではない。それどころかこのどさくさにまぎれて天下取りをたくらんだのである。
 如水の読みは以下のとうりである。
 家康と三成の対決はやがて家康が勝つ。しかし何分にも大軍同士の対決ゆえ長期戦になるであろう。その間に如水は九州、中国を平定。長期戦で疲れた家康を討って天下を取る。
この場合如水にとって最も望ましいのは家康と三成の戦いが長期化することであった。
 無論、家康と対決することになれば家康の陣中にある長政は殺されるであろう。しかし、天下取りの大望の前にはやむをえんと考えた。このとき如水55歳。この天下取り最後のチャンスにかける執念は並々ならぬものであった。
 しかし、如水の思惑ははずれた。関ケ原の合戦がわずか1日で、家康の圧勝で終わってしまったのである。
 しかも、その家康大勝利の影には息子長政の活躍があった。その一部始終を聞いた如水は、
 「日本一の大たわけは甲斐守(長政)なり。家康に大急ぎで天下をとらせて何の益やあらん」
 と、嘆いた。
 凱戦後、長政は、
 「内府はそれがしの手を3度まで頂いて、このたびの戦勝は貴殿の働きによると激賞されました」
 と、誇らしげに如水に報告した。
 如水は、
 「徳川殿が握ったのは、おまえのどちらの手だ」
 と聞き、「右手でした」と長政が答えると、如水は凄まじいことを言う。
 「そのとき、左手はどうしていた」
 なぜ、刺さなかった、と如水は言っているのだ。
 如水はこの戦いで天下取りを狙い、長政は黒田家の安泰と、発展を願った。同じ親子でありながらそれぞれ異なる思惑を秘めて関ケ原の合戦に臨んだのである。



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