小早川秀秋
こばやかわ ひであき
1541〜1602
略歴:
豊臣秀吉夫人北政所の兄木下家定の五男。はじめ秀吉の養子となって羽柴秀俊。のち小早川隆景の養子となって小早川家を継ぐ。官名金吾中納言。

 小早川秀秋。関ケ原の合戦で西軍を裏切ったことによって日本の歴史に名を残したこの青年は数奇な生涯を送っている。
 そもそも豊臣秀吉の甥として生まれたことが数奇な生涯の始まりである。秀吉の正室北政所は織田家の下級武士浅野家の出身だが、浅野家は養家で実家は杉原家である。実子も無く肉親も少ない秀吉は北政所の肉親をことごとく重用した。ちなみに杉原家は秀吉の少壮期の姓の木下姓に改めさせられた。
 この木下家の当主は木下家定といい北政所の一つ年下の弟にあたり中納言。播州姫路で2万5千石を領している。この五男が辰之助といい、のちの小早川秀秋である。
 実子のない秀吉は生まれてまもまい辰之助を養子にもらいうけた。秀吉、北政所夫婦は辰之助をかわいがったが長ずるにつれて失望した。魯鈍というほどではないが生来気が短くうかつな振る舞いが多く、学問を受け付けない少年になった。
 それでも秀吉はこの少年を可愛がった。というより可愛がらざるをえなっかのであろう。なにしろ秀吉には肉親が少ないため、辰之助程度の少年でも目をかけ一人前に育ててゆかねばならない。秀吉が関白に任じられたとき朝廷に奏請し、秀秋を従四位下右衛門督(うえもんのかみ)にした。この官を唐名で金吾将軍という。このため諸侯はこの少年を「金吾殿」と呼んだ。このとき秀秋12歳である。
 一時は秀吉の後継者になるのではないかと思われたが秀吉に実子秀頼が生まれたことにより状況は一変する。実子が生まれた以上、養子は不要になる。秀吉が秀頼を溺愛すればするほど秀秋の立場は微妙なものになった。
 「金吾をどうにかしてやらねば」とお節介な人物が登場する。黒田如水である。
 黒田如水は秀吉の天下取りに軍師として活躍したが、天下統一後は閑職に追われ暇であった。聡明なこの人物は今までの功績を誇って多大な恩賞を要求することなく、手薄な処遇にたいして不平を唱えたことがない。一人の人間は一つの時代しか生きられないことをこの人物は知っていた。
 しかし、策士でありながら人間好きなこの人物は、今度の秀秋のことについても誰に頼まれたわけでもなく、いわば暇仕事のお節介であった。
 まず、秀吉に秀秋を養子にだす意志があることを確認し、養家を物色した。
 「毛利家が良い」
 と、思った。なにしろ毛利家は天下の大大名であり、先祖を鎌倉幕府の大江広元にさかのぼる鎌倉以来の名家である。しかも幸い当主輝元には子供が無い。金吾を送り込むにはこれ以上の家はないであろう。
 如水はこの話を毛利の宿老小早川隆景に持ち込んだ。小早川隆景は毛利元就の3男にあたり、毛利輝元の叔父にあたる。毛利の一分家でありながら筑前一国と筑後肥前の一部の大封をあたえられ官位も従三位中納言とし、本家と同格の厚遇をあたえられている。
 如水は伏見の小早川邸を訪ね、秀秋養子の件を語った。「金吾殿を毛利家の養子としていただきたいが」という如水の申し出に隆景は、内心迷惑なと思いながらも如水の申し出に賛成する様子を見せ如水を帰したが、隆景としては秀秋を毛利の養子するという話は断固固辞しなくてはならない。なにしろ毛利家は鎌倉以来の名家であり、どこの馬の骨ともわからぬ秀吉の甥に乗り込まれてはかなわぬ。しかも評判がかんばしからぬ秀秋である。かといって無下に扱うわけにはいかぬ。この状況を打開するには一つしか策は無い。
 隆景が犠牲になるしかない。如水が話を進める前に秀吉に「金吾様をぜひ小早川家の養子にくださいませ」と願いでるのである。隆景は早速行動を起こし、秀吉の側近に根回しをおこない、秀秋を小早川の養子に迎えることに成功した。
 秀秋、2度目の養子である。
 小早川家を継いだ秀秋は朝鮮出兵のため渡鮮。士卒とともに先頭に立って働いた。しかし石田三成は「大将の器にあらず」と手厳しい評価を秀吉に進言。秀秋は筑前名島53万石から越前北の庄12万石に格下げになった。秀吉の死後家康の配慮により再び名島に返り咲くことができたが、三成にたいしての恨みが残った。
 さて、関ケ原の合戦である。
 秀秋と家康と三成のこれまでの経緯を考えれば本来は最初から家康につくべきだったのかもしれないが、三成に命じられるまま伏見城の攻略に参加。かといってひそかに黒田長政を通じて内応を伝えるなど、秀秋の行動は不可解である。
 家康は秀秋の内応の約束にたいして上方において2カ国の恩賞を約束、合戦前日目付け役として奥平貞治、黒田家の家臣大久保猪之助を差し向けた。裏切りのお目付け役とは古来あまり例がない。
 一方、三成も恩賞をちらつかせる。それは秀頼成人のあかつきまで関白の位を与えるという途方もないものであった。秀秋が迷うのも無理はない。
 合戦当日秀秋は関ケ原の南西松尾山に1万5千の大軍を率いて布陣した。霧がはれるとともに激しい合戦がはじまったが秀秋は動かない。戦況は東軍が押され気味になり家康は狼狽した時の癖で爪を噛みはじめた。そして内応を約束しながら動こうとしない秀秋に怒りが集中した。一方三成にしても同じであった。いま秀秋が山を駆け下りれば西軍の勝利は間違いなかった。その意味ではこの時点で合戦の鍵を、ひいては日本の歴史の鍵を握っていたのは家康でも三成でもなく、小早川秀秋というわずか19歳の青二才であった。
 ここで家康は日本合戦史上に残る大決断を下す。裏切りを促すため小早川の陣に向けて発砲したのである。これは一つまちがえれば小早川秀秋を敵に追いやることになり、そうなった場合東軍は敗れざるを得ない。博打と言ってもいい決断である。家康は秀秋の小心さに賭けた。
 はたして、秀秋は飛び上がるようにして驚いた。そして、東軍に寝返り西軍の大谷隊に突っ込んだ。秀秋の寝返りが東軍に勝利をもたらした。
 関ケ原の合戦により日本の歴史は大きな変換を迎えた。しかし小早川秀秋には自分がそれほどの役割を果たしたことに気づいていない。
 関ケ原合戦後、秀秋は岡山50万石の領主となった。しかし、三成の亡霊に怯え、領国は治まらず、家臣は四散した。そして、関ケ原合戦から2年後の慶長7年(1602)、21歳の若さで死んだ。後継ぎが無いため小早川家は取り潰された。これが徳川政権下における大名取り潰しの第1号である。



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