福島正則
ふくしま まさのり
1562〜1624
略歴:
尾張出身 通称市松。左衛門太夫 従四位下、侍従
豊臣秀吉に仕え、賎ヶ岳(しずがたけ)七本槍の1人。

 福島正則。幼名市松。豊臣秀吉のいとこの子供にあたるが、元来は尾張清州の桶屋の倅である。子供の頃に清州の町の橋の上で些細なことから足軽と喧嘩になり、子供でありながら相手の足軽を殺して出奔。そのまま秀吉を頼って仕えたというが実際どうだったのであろうか。とにかく市松少年が武家奉公を志願して秀吉を訪ねた時、秀吉は近江長浜の城主であった。ちなみに加藤虎之助、後の清正も同じ頃秀吉に仕えている。
 市松少年も虎之助少年も秀吉、ねね夫婦にかわいがられて長浜城で育った。特に秀吉夫人のねねは、実子がないくせに子供好きで二人の少年の世話をよく焼いたらしい。台所で握り飯をあたえたり、着物を繕ってやったりと、血はつながってなくても心情的には親子のようなものであった。
 市松少年は毛利攻め、山崎の合戦、賎ヶ岳の合戦、小田原攻めと秀吉が天下統一する過程における合戦に参加。まるで合戦の中で成長したと言っていい。特に柴田勝家との天下分け目の合戦といわれた賎ヶ岳の戦いにおいて、正則は加藤清正とならんで殊勲をあげ、他の5人とともに賎ヶ岳七本槍と称され大いに喧伝された。
 秀吉が天下を取ると尾張清州24万石を与えられる。正則にとってまさに故郷に錦を飾ることができたわけだが、秀吉にとっても正則を清州の城主に抜擢したということは大変重要なことで、すなわち関東の家康に対しての抑えということを期待しての抜擢であった訳である。
 正則というと粗暴、単純頚裂、猪突猛進と表現されるが、確かにそういう面はおおいにあったであろう。しかし、そういう言葉ですべてが表されるほど単純な人物であったのであろうか。だいたいそんな粗雑な神経をもった人物が対家康戦略の要衝の地となる清州の城主に任じられるであろうか。武骨のイメージがこの人物の場合強いが、清州城を拡張し、民政に努力するなど内政家としての一面をもっていたのである。
 もちろん粗暴の一面はたしかにあった。正則はかなりの大酒飲みで酔っては気に入らない家臣を手打ちにしたり、他の大名と喧嘩をしたこともよくあったようだ。と言って情にもろいところもあった。
 彼が清州の少年時代、彼を可愛がってくれた尼さんがいた。正則が文字どうり故郷に錦を飾り清州の城主になったとき早速この尼をさがしだし手厚く保護をした。さらに関ケ原合戦後、正則が安芸広島に去るにあたって次の清州の城主に特にこの尼の保護を頼んだという。正則の情の深さを示すエピソードである。
 情が深いと言えば秀吉の遺児秀頼に対してもそうであった。なにしろ秀吉は正則にとって主君でありながら恩人であり、父親代わりであった。その子供ともなれば特別の感情を持たざるを得ない。関ケ原の合戦で正則が家康についたのは、ただ石田三成が憎いのであって家康に天下を取らせたいわけではなく、秀頼大事の感情には変わりはない。
 さて関ケ原の合戦である。
 家康は数多い豊臣諸侯の中で特に気を配ったのが福島正則である。家康はどのようなことがあっても正則を味方につけたかった。勿論、正則の戦闘能力を買っていたことは言うまでもないが、それ以上に欲しかったのは正則の経歴である。
 福島正則が豊臣諸侯の誰よりも太閤秀吉の恩顧をこうむり、そして誰よりも豊臣家に忠誠を誓っていることはこの当時誰もが知っていた。その正則が真っ先に家康に付けば人々はどのように思うであろうか。「あの福島左衛門太夫(正則)でさえ内府殿(家康)に付いたのだ」と諸大名は争って家康に靡くであろう。家康はなんとしても正則を味方にしなくてはならない。
 といって正則にうかつなことは言えない。なにしろ正則という人物は単純頚裂な人物だけに「家康についたほうが得である」などと下手に損得に訴えれば、かえって怒って大坂方に走ってしまうかもしれない。家康は正則の説得を正則の友人でもある黒田長政に依頼した。黒田長政と言えば武勇の人というイメージがあるが、どうしてなかなかの知恵者で、次の天下は徳川と洞察して家康の天下取りのために暗躍した。この点稀代の軍師、黒田如水の息子である。
 家康が石田三成挙兵の知らせを受けたのは、豊臣恩顧の大名を率いて上杉討伐の陣を布いていた下野の国(栃木県)小山である。ここで家康は諸大名の去就を決める会議を開く。世に言う小山評定である。
 ここで家康は大仕事をせねばならない。家康が小山まで率いてきた上杉討伐軍の7万はほとんど豊臣家の大名の軍勢である。つまり家康は豊臣家の大老という立場で豊臣家の大名を率いてきている。その意味では身分の上下はあれ家康と彼らとは同格である。しかし、家康はこの小山の評定でこれら豊臣家の大名を味方に引き入れ徳川勢に仕立て上げねばならない。それができるかどうかは福島正則の去就にかかっていた。もし正則が三成との今までの行きがかりを捨てて西軍につくと言い出したら、ほかの大名もそれにならって西軍に走ってしまうであろう。なんとしても正則を味方にしなくてはならない。評定の前夜、家康は黒田長政を説得に向かわせる。
 長政は正則を説きに説いた。と言って先に述べた通り下手に損得勘定で説けばかえって正則を西軍に走らせかねない。結局、家康に秀頼に対しての忠誠心が揺るぎもないことを説き、そのうえで三成憎しの感情をあおった。そして、明日の評定で一番に家康につくと諸大名の前で表明することを誓わせた。黒田長政の調略は見事に成功したのである。むろん、正則にも三成が勝利し、政権をたてればいずれはその政権下で己が抹殺されるであろうという読みはあったであろう。
 はたして、正則は翌日の小山評定の冒頭で
 「われら妻子を大坂におくは、秀頼公の御為であり、治部少輔(三成)に利させるためにあらず。ここはいささかも妻子を思わず、内府殿にお味方すべし」
 と発言。この発言がすべてを決した。上杉討伐の諸大名は家康に加担。これが関ケ原における家康の勝利に結びついたのである。
 関ケ原合戦直後、逃亡していた石田三成が捕らえられて家康の本営がおかれていた近江大津の城の城門に晒された。そこへ正則が通りかかる。
 正則は三成を睨みすえ「うぬは身の程をわきまえず、大乱を起こしこのようなざまになった。これが五奉行筆頭のなれのはてか」と罵倒した。しかし、三成も倣然として「うぬのような知恵足らずに何がわかる」と言い返す。正則が「いくさに敗れながら腹も切らず逃げ回り縄目の恥をうけおって」とたたみかけたが、三成は「英雄たるもの最期の瞬間まで生を思い、機会をまつものである」と言い返した。正則と三成の両者の性格がそのまま表れたエピソードである。
 正則は関ケ原の戦功により清洲24万石から安芸広島49万8千石に栄転した。しかし徳川家の勢いが強まり豊臣家が没落するにつれて正則は鬱屈するが、かといって家康には現実問題として逆らえない。せいぜい酒に溺れるのが精一杯であった。
 やがて大坂の陣で豊臣家は滅びる。そうなると豊臣恩顧の最右翼の正則は徳川幕府にとって目の上のたんこぶでしかない。
 家康が死んでまもない元和5年(1619)、広島城の無断修築の罪で49万8千石は召し上げられ、信州川中島4万5千石に移封された。そして信濃国高井野村(現在の高山村)に蟄居の身の上となったのである。落魄した正則は寛永元年(1624)失意のうちに他界。享年64歳。墓は北斎の天井絵で知られた小布施の岩松院にある。



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