伊達政宗
だて まさむね
1567〜1636
略歴:
米沢の城主、伊達輝宗の長男。幼年時、天然痘で片目を失い、「独眼龍」と恐れられる。
18歳で家督を継ぎ、東北を制圧する。関ケ原の合戦では徳川家康に付き、仙台に居城を築く。

多くの戦国武将のうち伊達政宗ほど人を食った人物はおるまい。
 秀吉が小田原の北条征伐を行った時のこと、政宗に対し「小田原攻めに遅れることがあれば、関白(秀吉)に楯突く者として征伐する」と言ってきた。
 それに対し、政宗は、秀吉と北条とを比べてなかなか決断を下さない。小田原に参陣するということは今後秀吉に臣従することであり、東北の覇者になったばかりの政宗としては忸怩たるものがあったであろう。
 しかし、結果的にはどうにもならなくなって小田原へ遅れて参陣する。
 この時政宗は、石垣山の秀吉に面会するときに、白の死装束をまとって面会した。
 これには、並み居る諸侯も呆れたというが、最も驚いたのは秀吉であろう。この時遅参の罪で政宗を処罰するつもりであったそうだが、この姿を見ては却って政宗を処分するのは難しい。
 結局、政宗遅参の罪はうやむやにして、せいぜい「もう少し遅かったらここはなかったのう」と言って、政宗の首を杖でトントンとたたくだけだ。

 この手の話はまだある。

 小田原の戦いの後秀吉は政宗に国替えを命じる。会津、米沢の地から、更にその北へ移れと言う。
そして、政宗の旧領会津には名将の誉れが高い蒲生氏郷(がもううじさと)が入る。ちなみに蒲生氏郷は織田信長に見込まれて娘婿になったほどの人物だ。秀吉としては政宗の御目付役として氏郷を会津に持ってきたというところであろう。
 しかし、政宗としてはそれが面白くない。
 そこで、一揆を煽動して氏郷を苦しめてやれということになって、一揆の首謀者に密かに後押しする旨の密書を渡した。
 しかし、その密書が氏郷の手に入る。どうも、政宗の家臣が裏切って密書を持って密告したらしい。
 怒った氏郷は、その密書を政宗謀反の証拠として秀吉に提出した。
 秀吉の呼び出しに早速政宗は、問題の密書を見て「この書状は偽でござる」と言い放つ。そして、「このようなことがあろうかと、かねてから自分の鶺鴒(せきれい=鳥)に似せた花押(かおう=サイン)には目の所に針で穴をあけてある。これは政宗だけが存じていること。しかし、この書状の花押にはその穴がない。これを見ても政宗の筆跡をまねた偽手紙であることは明らかでござる」と言い放った。
 秀吉は以前に政宗から送ってきた数通の手紙をみる。すると確かに花押に穴が空いており、問題の密書には穴がない。
 結局政宗の言い分が通って、政宗の無罪が確定する。

 これだって、政宗の「小細工」が裏目に出てピンチを招いた話だが、そのときの抜け道も普段からしっかり考えているところが政宗の恐ろしいところでもあり、人をくったところだ。

 政宗という人物も他の戦国武将と同じく肉親の情に薄く育ったところがある。
 少年時代に疱瘡(天然痘)を患い、右目を失う。これが後に「独眼龍」といわれる所以であるが、あまりに容貌が醜くなったために生母保春院から嫌われたらしい。もっとも、この当時、上流階級の子弟は実母の下ではなく、乳母の下で育てられるのがしきたりだから、実母に嫌われたからといって現在の家庭のように直接、性格形成に影響を与えることは少なかったと思うが、どういうものであろうか。
 政宗が父輝宗から家督を相続してすぐに、二本松の畠山義継を攻めて降伏させているが、その畠山が輝宗を拉致して二本松に連れて行こうとした。これは政宗が降伏した畠山に苛烈な処分を行おうとしたために、畠山は輝宗の身柄を人質にして政宗との交渉を有利に運ぶために行った。
 輝宗が畠山によって二本松領の境を越えようとしたとき、政宗は父輝宗ごと畠山義継を鉄砲で撃ち殺すことを家臣に命じる。
 よくドラマでは輝宗が「父ごと義継を討ち取れ!」と叫んで政宗の決心を促したことになっているが、実際には混乱の最中であったのでよくわからない。
 とにかく、畠山を父ごと討ち取ってしまった。政宗おおいに嘆いたがどうにもならない。

 父の死を乗り越えて、政宗は東北平定に向けて活動する。なかでも会津の芦名、常陸の佐竹の連合軍と一進一退を繰り返したが、天正17年(1589)、磐梯山麓の摺上原の合戦で芦名氏を破り、ほぼ東北を制圧し、会津黒川城に入城した。時に政宗24歳。
 しかし、その時すでに天下は秀吉のものとなり、秀吉は冒頭に述べたとおり、政宗に小田原参陣を迫り、臣従を強要する。
 
 そんな時、政宗が毒殺されかかる。幸い一命は取り留めたものの、犯人は実母保春院であった。
 この政宗毒殺の謀略の裏には保春院の兄、山形の大名、最上義光(もがみよしあき)が、保春院をそそのかしたためと言われる。
 政宗と義光は伯父甥ながら仲が悪く、義光としては政宗が伊達の当主にいるのが不安でならない。おりよく伊達は対秀吉外交で家中の意見が割れている。そこに付け入って、妹の保春院に次のように政宗毒殺をもちかけたと思われる。
 「政宗は秀吉に誼を通じていた芦名を勝手に攻め滅ぼしたため、秀吉の機嫌を損ねている。今このまま小田原へ参陣しても政宗は捕らえられて殺され、伊達の家は取り潰されるに違いない。それより、政宗を成敗して弟の竺丸を当主に立て伊達の家名を残したほうが得策ではないか」
 保春院も伊達の家名を残すためといわれれば、賛同するよりほかになかったであろう。しかも、政宗よりも弟の竺丸をかわいがっていたから、毒殺への決断も早かったのではあるまいか。
 かくして、小田原参陣の別れの宴と称して政宗にすすめた料理の中に毒を仕込んでおいたが毒と気づいた政宗はすぐさま解毒剤を呑んで間一髪のところで助かった。
 政宗は、「実の母は殺せぬので、舎弟には罪はないが処置としてやむを得ぬ」と言って弟竺丸を成敗した。そして、保春院は兄義光を頼って山形へ落ち延びた。
 戦国の世のやむを得なかった事とはいえ、父や弟をその手にかけてこなければならなかったのは不幸としか言いようがない。
 
 秀吉の死後起きた、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では徳川家康方につく。そして会津の上杉景勝を攻める。
 この合戦の前に家康の7男、松平忠輝と政宗の娘五郎八姫(いろはひめ)との婚約が整い家康に接近する。
 しかも上杉攻略のおりには俗に言う「百万石の御墨付」を家康からせしめ、家康勝利のあかつきには百万石をもらう約束になっていた。
 しかし、独眼龍政宗の野望は尽きない。この戦乱のドサクサにまぎれて同じ徳川方の南部利直の領地を狙い、またもや一揆を煽動する。(ほんまに油断も隙もない)
 しかし、この企てはまたもや露見する。
 関ケ原の合戦には勝利したものの、この一揆煽動の罪を咎められて百万石の加増をフイにする。
 こう考えると政宗という人物は、決して従順な人物ではなく、よほどの博打好き(しかも大博打が)か、求めて乱を好むところがある。それゆえ秀吉、家康といった天下人も決して安心することがなかった。それでいて取り潰されることがなかったのは、大胆さと裏腹に細かい目配り、気配りが隅々まで行き渡り、失敗しても何とかなるように策を打っておいたためであろう。

 政宗が近臣にあてた手紙が残っているが、その中に「小姓どもの行儀が悪い」と細かい点までふれて叱責している。戦国武将のなかで政宗ほど家来の行儀にうるさかった人物はいないとまで言われている。豪放そうに見えて意外と細かい点にまで気がつく人物であったのであろう。

 慶長5年の関が原の合戦が終わると仙台の青葉山に城を築く。仙台青葉城である。そして、城下町を開き、奥州一の大都市を築く。

 派手好みなところから後世「伊達者」という言葉を残したが、東北の僻地でありながら、桃山式建築の粋を集めた壮麗な瑞巌寺を建立し、今もその面影を残している。また政宗自身も茶道、和歌にも秀で文化人としても一流であった。
 しかも、キリスト教にも理解を示し、家臣の支倉常長を遠くローマに派遣し、通商を求めるなど、国際人としての側面を持っている。

 政宗が波乱万丈の生涯を閉じたのは寛永13年(1636)江戸の伊達屋敷において。享年70歳であった。
 政宗の死後彼を描いた肖像画は両目を開けて描かれている。これは政宗が「余の死後、像を残すのであれば両眼をそなえよ」と言ったと記録にある。
人々から「独眼龍」と恐れられ、また称えられても、やはり本人は片目を失ったことを密かに気に病んでいたのかもしれない。



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