大村益次郎
おおむら ますじろう
1824〜1869
略歴:
本名 村田蔵六。
周防国吉敷郡鋳銭司村(すせんじむら)の出身。天保13年、蘭医梅田幽斎の塾で学び、弘化3年大坂の適塾に移る。以後長崎遊学を経て適塾塾頭になり、宇和島藩出仕から幕府蕃書調所教授方、講武所教授を歴任。文久元年、長州藩の命で帰国。軍事指導者として第二次長州征伐から戊辰戦争、明治元年の彰義隊討伐に非凡な才能を発揮した。維新後、兵部大輔となり近代兵制の制定に努力した。しかし、京都三条木屋町の旅館で、不平士族に襲われて重傷を負い死亡する。

 今回は、ビデオ作品を紹介しながら。
 紹介する作品は『花神』。この作品は昭和52年のNHK大河ドラマである。
 『花神』の原作は司馬遼太郎「花神」(新潮文庫)。しかし、「世に棲む日々」「十一番目の志士」「伊達の黒船」「峠」など、幕末を舞台とした司馬作品の多くを交えた作品である。つまり、司馬作品幕末版の集大成を映像化したものが『花神』である。(ちょっと大袈裟だが)
 20年前の作品だから、正直言ってセットなど粗さが目立つが、なんと言っても出演者がいい。本当にいい。
 主演の村田蔵六(大村益次郎)に中村梅之助。その他に中村雅俊、米倉斉加年、田村高廣、篠田三郎、田中健、西田敏行、高橋英樹、浅丘ルリ子、宇野重吉、加賀まりこ他豪華ケンラン。最近の時代劇に出てくる下手役者に辟易しているあなた。「昔の大河は良かった」って涙をながしますよ。(実際、昔の大河は良かった。役者が上手かったもん。最近は1年交代でハズレに当たっているような気がする。ちなみに来年は「利家とおまつ」だって。出演者見たらムニャムニャムニャになっちゃったね。わたしゃぁ)
  周防の国(今の山口県)、鋳銭司村の村医者、村田蔵六(中村梅之助)は無愛想な男で、村民が「お暑うございます」と言えば、「暑中はこんなものです」と言い、「お寒うございます」と挨拶をすれば、「寒中はこんなものです」と答えてしまう一風変わった人物だが(このシーンはビデオには無い。原作から引用)、妻お琴(加賀まりこ)のヒステリーの前には尻尾を巻いて逃げ出してしまう、どちらかというとあまりパッとしない人物だ。
 しかし、この村田蔵六。実はこの当時日本一と言われた、緒方洪庵(宇野重吉)の蘭学塾「適塾」の塾頭を務めた人物で、その類まれな語学力をかわれて伊予(愛媛県)宇和島藩に招かれる。
 宇和島藩主、伊達宗城(だてむねなり 大木実)は、会う早々、蔵六に砲台と軍艦を作れといきなり命じる。蘭学とはいえ医学の知識しかない蔵六は、「大名ちゅうのは途方も無いことを考えるもんじゃ」と呆れるが、宇和島城下のちょうちん張替え屋の嘉蔵(愛川欣也)と蒸気船をつくる。(なぜ、ちょうちん張り替え屋が蒸気船造りをしたのだろうか。しかし、この話は史実らしい)
 その頃、宇和島には、かつて日本の蘭学の興隆に大きく貢献したシーボルトの弟子の二宮敬作(大滝秀治)と、そのシーボルトの娘のイネ(浅丘ルリ子)がいた。
 二宮は蔵六にイネの教育を依頼する。イネが蔵六の家に泊り込みで学問に打ち込むうちに2人は、ついつい、わりない仲になってしまう。(そうなっちゃっても、蔵六先生はイネに講義調に言い訳をします)
 そんなころ、松陰=吉田寅次郎(篠田三郎)は、佐久間象山に入門するが、持ち前の純情さと熱気から、突飛な行動をとる。長州藩を脱藩したり、ペリーの船に乗って渡米を画策して失敗したりする。こういうひたむきな人間、吉田松陰を演じた篠田三郎ははまり役である。
 渡米が失敗した松陰は、捕らえられ長州藩に送られる。そこで、牢屋『野山獄』に入れられたあと、親類預けとなる。そこで、松下村塾の主宰となる。そんな時に、高杉晋作(中村雅俊)が登場する。
  「ここに、一人の暴れ者がいる」というナレーションとともに登場する晋作は、本当に暴れながら登場する。かれは、藩校のライバル、久坂玄瑞(くさかげんずい 志垣太郎)に連れられて松下村塾を訪れる。そこで、晋作は松陰に入門する。
 この頃、幕府は井伊直弼を首班とした内閣(?)であったが、アメリカ総領事ハリスの脅しに屈し、日米通商条約を結んでしまう。全国の攘夷家は激昂したが、松陰も井伊政権の打倒を画策する。中でも、上洛中の間部老中を暗殺しようと門下生に指示を出すが、さすがに門下生たちは松陰の過激ぶりについて行けなくなって計画は頓挫する。
 折から、幕府の大老、井伊直弼は反対派の粛清を断行する。世に言う「安政の大獄」である。(話は、主人公(一応)の蔵六からドンドン離れていきますが、この頃蔵六は江戸に出て、幕府の蕃所調所=つまり、外国文書の翻訳官、になっています)
 反井伊派のひとり、梅田雲浜(うめだうんぴん)と関係があるのではないかという嫌疑で松陰は江戸に召喚されるが、梅田との関係の嫌疑は晴れたものの、奉行の誘導尋問にのって間部老中暗殺計画の一部を明かしてしまう。松陰先生は「奉行もまた人。説いて説けば分からぬことはあるまい」と、話してしまったのだが、してやったり奉行。松陰を縁の上から白砂へ突き落とし、「吉田寅次郎神妙にしろ!!」
 松陰への判決は死罪であった。そんな頃、蔵六の元に一つの依頼が舞い込む。小塚原刑場で死罪になった女囚の腑分(解剖)の執刀を依頼されたのである。蔵六はその依頼を受ける。
 松陰の処刑は、小塚原の処刑場で行われた。松陰の亡骸を引き取りに、桂小五郎(後の木戸孝允=米倉斉加年)、伊藤俊輔(後の伊藤博文=尾藤イサオ)、入江九一等が、小塚原に赴く。その途中、桂は腑分けを行う蔵六を見る。
 そこで、桂はこの日の蔵六との出会いに運命的なものを感じ、蔵六を長州藩に迎えることを周布政之助(すふまさのすけ=田村高廣)に進言し、これに成功する。かくして、蔵六は生まれ故郷の長州藩に迎えられたのである。
 高杉晋作は、師松陰の処刑を聞いて大いに悲しみ、倒幕と攘夷運動に邁進する。(本当にメチャクチャです)
 品川の英国公使館を焼き払うわ、将軍の行列に向かって「ヨッ!征夷大将軍!」と野次をとばすわ、周布さんと桂さんは晋作のハチャメチャな行動に頭を悩まします。
 周布さんと桂さんをもっとも驚かせたのは晋作の出家である。頭を丸めた晋作は名前を「東行」と号して庵に引っ込む。
 そんなメチャクチャな中、長州藩は極秘の計画を進める。それはロンドンに留学生を送るというものであった。その準備を命じられたのが蔵六であった。
 留学生は、伊藤俊輔、井上聞多(東野英心)ら4人であった。蔵六は彼等を横浜から送り出すことに成功する。
 1868年(文久3年)5月。長州藩は馬関海峡(下関海峡)を通過する外国船を突如砲撃する。長州藩の攘夷の始まりである。
 しかし、翌月早くも外国艦隊の砲撃を受け、長州藩の砲台は壊滅する。
 思わぬ事態に、長州藩主、毛利敬親(金田竜之介)は晋作を呼ぶ。
 敬親 「馬関でいささか不都合なことが起きた」
 晋作 「いささか?で、ございますか」
 敬親 (やや絶句して)「いや、思いもよらぬことが起きた。馬関の防衛がかようにもろいものとは思いもよらなかった。晋作。今すぐ馬関に行け。行ってなんとかせい!」
 藩主の命令を受けた晋作は、すぐさま馬関にとんだ。そこで、豪商、白石正一郎(嵯川哲郎)の協力を得て、日本最初の民兵「奇兵隊」を編成する。
 更に、長州藩は追い討ちをうける。8月18日の政変により会津、薩摩藩によって、京都政界から追われる。長州藩が中央政界から追われたことを受けて、江戸にいた蔵六も長州へ引き上げる。
 この頃から、長州藩は狂乱の波に呑み込まれる。
 1864年(元治元年)6月、テロによって京都奪回を計った長州系浪士は、事前に察知した新撰組によって壊滅させられたが(池田屋の変)、翌7月長州藩は、藩兵を京都に差し向け政権奪回のクーデターを図る。
 長州藩兵は会津、薩摩藩兵を主力とする幕府軍と衝突。これが世に言う「蛤御門の変」(禁門の変)である。
 この戦いにより、長州藩兵は潰滅し、久坂玄瑞らは戦死する。
 しかも、長州本国は、今までの攘夷運動の反動を受けて、米英仏蘭4カ国の艦隊と戦争をしていた。馬関戦争である。たちまち敗れる長州藩。長州一藩で全世界を相手にしているようなものだ。(ほんとにもうメチャクチャ)
 そこへ更に追い討ち。幕府は勅命を奉じて長州征伐を行うことを発表。もはや、長州は崩壊寸前である。
 晋作は藩命を受けて、四国艦隊との講和交渉の全権となって艦隊に乗り込む。そこで、晋作は列強の賠償金の要求を強引に撥ね付け(幕府に責任を押し付けて)、彦島の租借の件も古事記の講釈を延々と行ってうやむやにしてしまう。(通訳の伊藤のうろたえぶりが見もの)
 禁門の変、馬関戦争に敗れ、更に幕府の長州征伐を受け、長州藩の政権は交代する。周布政之助は失脚、責任をとって自害する。長州藩の藩論は保守党(俗論派)が握り、幕府に降伏。高杉は逐電する。
 九州に逐電した高杉は、長州に戻り奇兵隊を率いて決起する。そして、俗論派政府を倒すため、萩に攻め上る。高杉の決起は成功。俗論派政府は倒れ、長州の藩論は再び、倒幕派が握ることになる。
 そのころ、但馬(兵庫県)出石に荒物屋(今の雑貨商)に身をやつして潜伏していた桂小五郎は、長州の藩論が再び倒幕派が握ったことを知って、長州に戻る。そして、長州の軍制を近代化すべく、蔵六を長州軍の総司令官にする。蔵六をおいて、西洋軍制に通じた人間は、長州はもとより、この当時の日本にはいなかったであろう。その点、この人事は適任であったと言える。
 時勢が、蔵六を歴史の表舞台に引きずり出したのである。これを機に蔵六は、名前を「大村益次郎」と改める。
 そんな中、一人の男が登場する。土佐の坂本竜馬(夏八木勲)である。竜馬は、今までの行きがかり上、不倶戴天の敵になっていた長州と薩摩を同盟させようと画策する。紆余曲折の末、慶応2年(1866)1月、薩長同盟が成立する。
 長州の不穏な動きに、業を煮やした幕府は再び長州征伐の軍を起こす。
 幕府は、芸州口(広島)、石州口(島根)、小倉口、大島口(海上)から、一斉に攻撃を仕掛けるが、高杉の奮戦と、蔵六の適切な指揮により幕府軍を防ぐ。

 しかし、この時の蔵六の姿はちょっと珍妙である。渋うちわを片手に浴衣がけ。とても総大将のカッコウではない。しかし、そのなりで蔵六は石州口から攻め上り、浜田城を攻め落とす。この戦いにより、軍略家大村益次郎の名は鳴り響いた。
 幕府の攻撃を防いだが、戦いの最中、結核を病んだ高杉は、この後、愛人おうの(秋吉久美子)とともに、静養生活に入るが、
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
と、辞世の句を残して死んだ。慶応3年(1867)4月14日。享年29歳。
 時勢は、風雲児高杉の死を超えて更に沸騰の時代に入る。
 慶応4年(1868)1月。京都南郊、鳥羽伏見で幕府軍と薩長軍が激突。すでに朝廷工作に成功していた薩長軍は官軍となり、幕府軍は敗れて、大坂にいた将軍徳川慶喜(伊藤孝雄)は江戸へ逃げ帰る。
 江戸についた慶喜は恭順の意を表し3月には江戸城を開城。官軍は江戸の無血入城をはたす。
 しかし、江戸についた官軍は大きな敵に立ちふさがれた。会津、仙台、米沢を中心とする奥羽諸藩の抵抗と、上野にこもる旧旗本によって結成された「彰義隊」である。
 特に、彰義隊は江戸の市中に出没してゲリラ的行動をおこない、新政府軍を悩ませた。
 そこへ、蔵六が乗り込む。
 彰義隊討伐を決意した蔵六は、半ば強引に軍の指揮権を握り(と言うより、世渡り下手で、ぶっきらぼうのため)、そのため薩摩の海江田信義(中丸忠雄)の恨みをかうが、本人は至って平気で作戦をたてる。
 蔵六の作戦の主眼は戦争によって起こる火災をいかに最小限に防ぐかということであった。そのために、過去の江戸の大火の記録を丹念に調べ、風の向きなどを調べた。そして、実際に蔵六は過去の記録から割り出した、江戸を焼き払うことができる火元のポイントの数ヶ所に人数を差し向け、彰義隊の放火を防ぐように警備させたといわれる。
 それは、何故か。蔵六は江戸が近代日本の首都になるのにふさわしい都市であると考えていた。
 更に、蔵六は強力な大砲、アームストロング砲を装備した。アームストロング砲は、開発国イギリスをのぞけば、地球上で肥前佐賀藩しか所有していなかった。
 蔵六は佐賀藩からそのアームストロング砲を借り受け、不忍池越しの本郷加賀屋敷(今の東京大学)据えた。
 彰義隊討伐の戦いが始まった。戦争は蔵六の思惑どうりに進んだ。
 当初、白兵戦では官軍側が不利であったが、午後になって、蔵六がアームストロング砲の発射を命じると、形勢は逆転し、ついに、彰義隊は潰滅した。
 官軍のほかの参謀が難色を示した彰義隊討伐はわずか一日で終わった。蔵六の官軍での地位は不動のものとなった。
 このころ、東北、北越は官軍と、奥羽越列藩同盟との間で激戦がくりひろげられた。
 とくに、北越の長岡藩は河井継之助(高橋英樹)を中心に激戦が続いた。

 長岡藩が何故、官軍と戦うことになったかは、『河井継之助』のところでふれたので詳しくは述べないが、河井の指導によって長岡藩は強力な武装化をしていた。特に、東洋で3門しかないといわれたガトリング砲(機関銃の前身)を2門もそろえていた。
 この戦いで河井はガトリング砲の砲手をもつとめ、まさに獅子奮迅の働きをした。(ちなみに、このシーンを見たいがために私はこのビデオを買ったという説がある)
 しかし、河井が足に流れ弾を受けて負傷すると、長岡方に戦況不利となり、ついに、会津にむけて敗走した。その途中、会津塩沢で河井は戦病死する。
 河井はその最期に、従者松蔵に自分が死んだ後に入れる棺桶をつくらせ、やがて自分を燃やすであろう火を病床から身を起こして見ていた。そして、松蔵に、
「もっと火をさかんにしろ」
と、命じた。そのときの河井の表情がメイクも手伝って迫力があります。
 北越、東北の戦いが終わると、蔵六は近代兵制の確立に着手する。蔵六は、兵器の製造工場を大坂に置くことを考えていた。これは、つぎの内乱が西南の地に起こることを想定していたといわれる。そして、その蔵六の読みの正しさは数年後におきた西南戦争によって証明された。
 蔵六は、関西に出張する。しかし、京都には海江田信義がいた。海江田は蔵六との衝突を恐れた大久保利通(高橋長英)によって、京都に左遷させられており、蔵六を深く恨んでいた。
 そこへ、蔵六がのこのこと乗り込んできたのである。海江田は長州藩を脱藩した神代直人(石橋蓮司)らを焚きつけ、蔵六暗殺を教唆する。(しかし、石橋サンはこういう役がよく似合う)
 京都に止宿していた蔵六は神代ら刺客に襲われ重傷を負う。そして、明治2年11月5日。蔵六は享年45歳で亡くなった。
 最後にドラマのナレーターはこう締めくくる。
「吉田松陰、高杉晋作、村田蔵六に連なる系譜がある。
 革命における、思想家、行動家、それを仕上げる技術者の系譜である。
村田蔵六は歴史が必要としたとき忽然としてあらわれ、その使命が終わると大急ぎで去った。もし、維新というものが正義であったとすれば、彼の役目は技術でもってそれを普及し、津々浦々の枯れ木にその花を咲かせて回ることであった。
 中国では花咲かじじいのことを「花神」という。彼は花神の仕事を背負ったのかもしれない。」



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