大石良雄
おおいし よしお
1659〜1703
略歴:
播州赤穂浅野家の城代家老。通称、内蔵助(くらのすけ)
主君浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に斬りつけ、お家取り潰しになる。内蔵助は同士と協力、元禄15年(1702)12月14日、吉良邸に討ち入り主君の仇を討つ。翌年2月、幕府の命令により切腹する。

<さまざまな忠臣蔵 さまざまな内蔵助>
 赤穂浪士が吉良邸に討ち入って吉良上野介を討ち取ったいわゆる「赤穂事件」は、「忠臣蔵」と命名されて、300年たった今でも語り継がれるのは、考えてみれば稀有なことである。
 この事件が江戸市民に与えた衝撃がいかに大きかったか、このことだけでもわかる。(それだけ江戸時代というのは大した事件が少なかったということか)
 もっともこの時代。殺人や、心中、火事など事件がおきれば、すぐに例えば「女殺油地獄」とか「曽根崎心中」とか「八百屋お七」のように芝居になる。そう考えればこの頃の芝居というのは、単なる芝居ではなく、ニュースというか、昔のニュース映画のような役割を果たしていた。
 その意味で、この「赤穂事件」はすぐさま人形劇として上演された。しかし、幕府から上演禁止の命令を受けた。
 その後40年の歳月を経て、近松門左衛門や竹田出雲らが『仮名手本忠臣蔵』の脚本をつくって今の忠臣蔵の元を作った。
 もっとも『仮名手本忠臣蔵』は時代設定を足利時代に設定し、吉良上野介を『高師直(こうのもろなお)』、浅野内匠頭を『塩谷判官(えんやはんがん)』、大石内蔵助を『大星由良之介』と登場人物の名前を変えて上演している。
 これは、当時幕府は実際にあった事件をそのまま演じるのを禁止したためで、時代設定や名前を変えたのは、「これは今の時代のお話じゃありませんよ。あくまでも昔々の話でさァ」と、お上の目をくらます方便である。
 この「仮名手本忠臣蔵」以来、歌舞伎、人形浄瑠璃で演じられ、浪曲、講談では様々な話が作られてゆく。よく忠臣蔵ドラマで演じられる「赤垣源蔵徳利の別れ」とか「雪の南部坂」とか「大石東下り」とかの名場面(わからない人はビデオで見てください)は講釈師がハリ扇の下から作ったお話であろう。映画や歌謡曲はもとより、宝塚の舞台にもなっているから「忠臣蔵」がとりあげられたことのない演芸はないのではあるまいか。
 それだけに、忠臣蔵のとらえられかたは時代によって変遷がある。
 つい先ごろ、「実は大石は討ち入りなんかしたくなかった」という視点で描かれた(屈折した)ドラマがあったし、「派手な場面を省いたあくまで史実(に近く)に基づいた忠臣蔵」というのもあった。
 まあ中には「サラリーマン忠臣蔵」とか「ワンワン忠臣蔵」「OL忠臣蔵」といった変わり種もあるが。
 やっぱり正統派(?)忠臣蔵で大石を演じるのは、その当時の時代劇のスター達で、昔だったら長谷川一夫(有名な「おのおの方、討ち入りでござる」の名セリフを残す)や、片岡千恵蔵、市川右太衛門、松本幸四郎(先代)といった錚々たるメンバーだ。
 最近では、北大路欣也、松方弘樹、里見浩太郎、萬屋錦之助といった人たち。
映画『四十七人の刺客』では高倉健が演じていたが、ちょっと従来の内蔵助と異なってやや精悍すぎるきらいがあったが、47士を刺客として捉えた作品なので、その刺客たちの頭として内蔵助を考えれば「大石」健さんの精悍さは納得がいく。
 一方、「屈折した」忠臣蔵の大石は、僕が覚えている作品ではビートたけしが演じていた。やっぱり一癖あるわ。
<虚構の忠臣蔵>
 歴史を考える上で、資料が少なくて考証に支障をきたすことが多いが、反対に多すぎて支障をきたすことがままある。
 この忠臣蔵の場合もそうだ。
 なにしろ、これだけ人々の間でもてはやされた事件だ。真偽とりまとめて資料は膨大な数にのぼる。はっきりいってどれが本当で、どれが嘘だかわからないのだ。そのくせ、これだけ有名な事件であるにもかかわらず、浅野内匠頭がなぜ刃傷を起こしたのかという、事件の核心すら今もって不明だ。
 吉良邸に討ち入ったときも、山鹿流の陣太鼓は叩かなかったし(寝ている吉良方を太鼓で叩いてわざわざ起こすわけがない)、あのお芝居で有名な揃いのユニフォームを着て討ち入ったわけではない。
 しかし、なぜ大石が太鼓を叩き、あのユニフォームを着て赤穂浪士は討ち入ったというイメージが定着したか。それは長年、芝居等で「おもしろ、おかしく、かっこよく」脚色したために違いない。脚色が実際の事件を超えて、世間に定着した。それが、この事件の真相をわからなくさせたと言える。
<実際の大石>
 よく、ドラマや芝居では、内匠頭と大石は主君と家臣という通りいっぺんの間柄ではなく、まるで兄弟のように信頼しあっていたというような描き方である。しかし、本当にそうだったのであろうか。内匠頭は普段から大石を信頼していたのであろうか。
 この当時、赤穂浅野家の財政を握っていたのは大石ではなく次席家老の大野九郎兵衛であった。大野は塩田の開発など押し進め、財政の好転に努力した。赤穂浅野家が5万3千石の表高にくらべて比較的裕福だったのは、ひとえに経済官僚としての大野の手腕に負うところが大きかったと言わねばなるまい。
 くらべて、大石はさしたる業績は残っていない。この当時の大石のあだ名は「昼あんどん」と言われていたと言う。となれば、大石と大野を比べた場合、どちらを内匠頭は信頼したか答えはおのずと出るであろう。大野は実質上、赤穂藩の首相として藩政を切り盛りしていた。
 大石内蔵助が単なる「昼あんどん」ではなかったことは、浅野家が取り潰された際に大きな混乱を起こすことなく城を明け渡し、抜け駆けして吉良邸に斬り込もうとする同志を統率し、用意周到に策をめぐらして上野介を討ち取るなど、決して凡庸な人物ではなかったことがわかる。
 しかし、この当時の元禄時代というのは徳川幕府が始まって100年ほどにあたり、急速に貨幣経済が浸透し始めた時代であった。商品の流通は盛んになり江戸時代初めの米を経済の中心とした農本主義ではどうにもならなくなり始めた時代であった。現にこの頃から幕府をはじめ諸藩はこの経済機構の変化がわからず、急速に財政悪化しはじめる。
 幕府をはじめ諸藩はこの新しい経済機構に対応できる指導者が必要だったのである。
 余談だが幕府はこのことが最後までわからなかった。8代将軍徳川吉宗の享保の改革以来、幕府はたびたび財政改革を行ってきたが、それはいずれも倹約と規制強化と農本主義の復活であった。そして、いずれも現状にあわなかったので失敗した。田沼意次は経済官僚としては有能な人物で、商業を基本とした体制をつくろうとした。そのためには開国まで視野に入れ、蝦夷地の開拓調査など積極的に活動した。その点では先見性のある人物であった。しかし、この田沼の政策は従来の倹約と農本主義を正しいと思う保守派の大反発を買い、保守派は悪徳官僚の汚名を着せて田沼を失脚させてしまった。そして、その後の寛政の改革、天保の改革は倹約と規制強化に終始し、そのため流通の循環を止め不景気をおこし、民衆の怨嗟をかい、肝心の幕府財政は一向に好転せずいずれも失敗した。これらはいずれも貨幣経済を後退させ、江戸時代初めの農本主義に経済をもどし、武士の権威を回復すれば万事丸く収まると考えた、当時の為政者たちの甚だしい時代錯誤が生んだ当然の結果であった。
 そう考えれば、急速に貨幣経済が進行しつつあった元禄の赤穂浅野家において、有能な経済官僚、大野九郎兵衛の存在は大変貴重であった。もし、浅野家に何事もなかったら大石よりも大野のほうが顕彰されたに違いない。
 大石内蔵助は、浅野家の家中では名門の大石家の当主として、藩士たちから尊敬はされていたし、洒脱な人柄で人々から愛されたであろうが、何事もなければ一介の門閥家老として終わったにちがいない。
 思いもよらぬ事件がおきて窮地に陥ったとき、今まで自分でも知らなかった能力を発揮した。それが大石の偽らざる気持ちではあるまいか。そう考えれば、「人は見かけによらない」。その言葉がピッタリと大石は当てはまる人物である。



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