小栗忠順
おぐり ただまさ
1827〜1868
略歴:
通称 上野介
江戸生まれ。万延元年(1860)井伊直弼に認められ、安政条約の批准のため御目付役として渡米。以後、外国奉行、勘定、町奉行、軍艦、歩兵、陸軍奉行を歴任。フランスの援助で、横浜・横須賀造船所建設に着工。軍の近代化に着手したが、時すでに遅く、大政奉還の際主戦論を主張、勝海舟の和平論に敗れた。
上州の自領に引退後、官軍に憎まれ、養子と共に高崎烏川の河原にて処刑される。

〈徳川幕府の小泉純一郎〉
 小泉純一郎さんが自民党の総裁になり、首相になった。考えてみれば、小泉さんは自民党の中で長年、郵政三事業の民営化などを主張する改革派として、どちらかと言えば党内で浮いた存在だった。そういう人が結局、自民党員の期待を一身に負って総裁に選出されたのだから、自民党の閉塞感というのは相当なものだったんだろうと思う。
 幕末。ちょうど閉塞感の真っ只中にあった、徳川幕府と幕藩体制の中で、小泉さんと同じように改革の旗手に立った男がいる。小栗忠順。通称上野介。
 小栗は幕臣として、幕閣に改革案を再三提出している。そのたびに上層部と衝突し役職を辞任するが、能力をかわれてまた登用される。いわば、役に就いたり、辞めたりの繰り返しであった。この点も、小泉さんに似ていると思う。
 小栗の唱えた改革案のなかでもっとも過激であったのは「郡県制」導入である。
 「郡県制」について多少説明が要る。
 この当時、徳川幕府を中心とする幕藩体制というものは、近代化を進める上で極めて時代遅れの体制であった。
 そもそも、簡単に言えば幕藩体制というものは大大名、徳川家を盟主とする大名連合と考えていい。
 盟主であるから当然権力がある。しかし、大名には藩の自治権がある。幕府と言えども大名の自治権に深く介入することはできない。そのため、国家の予算は、徳川家自体の領地(天領)からあがる収入で賄わねばならない。
 考えてみれば、この当時の幕府ほど悲痛な国家はなかったであろう。ペリーの来航以来、富国強兵と近代化は早急の課題であった。そのためには膨大な費用がかかる。しかも、攘夷運動によって外国人が殺傷されたり、対外戦争(馬関戦争、薩英戦争)が起きたりしたがその賠償金はすべて幕府が捻出した。
 これら、莫大の支出は徳川幕府の天領から賄われる。いくら徳川幕府が強大だったとはいえ、その領地は日本全体からすれば何分の1にすぎず、このままではどうにもならなかったに違いない。
 結局、幕藩体制を解体して「郡県制」による中央集権制を導入するしかなかったのである。
 小栗はその郡県制を真っ先に主張した人物である。もっとも、小栗構想では郡県制の中心に徳川家が座る。
 話は先走るが、その後の歴史は小栗の構想通りに進む。徳川幕府を倒した明治政府は廃藩置県を行い、郡県制を導入する。藩が残っていたのでは、にっちもさっちも行かなかったのだ。小栗構想との違いは郡県制の中央に天皇をもってきただけといっていい。
 小栗の郡県制は失敗に終わる。あまりに性急であったのと、諸大名の反発をかったためだ。
 特に時期が悪かった。幕府が第二次長州征伐を行う寸前であったからだ。
 幕府は、反幕府の主勢力の長州藩をつぶそうと長州征伐の命令を各藩に命じたが。諸藩は、幕府の(小栗の)郡県制構想の噂を聞いて長州征伐に本気で取り組もうとはしなかった。
 郡県制を布くということは、諸大名を取り潰すことである。逆らう藩は攻めつぶす事になるであろう。つまり、今の長州の運命は、明日の他藩の運命でもあった。
 郡県制構想に真っ先に反発したのは、薩摩藩である。薩摩は長州と手を握っていわゆる薩長同盟を結ぶが、そのきっかけとなったのは小栗の郡県制構想に反発し、長州の後は薩摩が標的にされるという危機感からだったといわれる。
 その結果、薩摩の支援を得た長州は、新式の銃器を得ることに成功。長州を攻める諸大名の足並みが揃わなかったことも幸いして、幕府軍を長州国境で撃破した。
 長州征伐の失敗は、幕府の威光を急速に落とした。郡県制の導入どころではなくなったのである。
 小栗の郡県制構想は頓挫する。
〈横須賀の父〉
 小栗は日本の近代化には海運が不可欠であると考えていた。
 この当時、世界に航海する船を持つことが近代国家の最低条件の1つであった。大きな商船と海軍力。しかし、この当時、日本には諸藩が細々とやり始めたにすぎない。
 小栗は、それを大々的にやろうとした。
 そのためには、造船所を造らねばならない。それも世界的な規模のものを造ろうとした。その模範をフランスのツーロン軍港(フランス海軍の根拠地)に採ったといわれているから、雄大である。
 無論、長州征伐等で財政赤字の徳川幕府にこのような大事業を起こすのは、途方もない大負担であったにちがいない。
 小栗はこの当時、勘定奉行と、海軍奉行を兼任していた。いわば、大蔵大臣(おっと名前が変わったんだっけ)と海軍大臣を兼ねていたようなもので、この一代プロジェクトのために就任したといっても良いだろう。
 小栗は造船所造営の場所を、相模の国横須賀村という無名の村を選び、慶応元年(1865)から工事が始まった。この造船所こそが、軍港横須賀の始まりである。
 造船所の工事の目鼻がついたある日。小栗は側の人に言った。
 あの、造船所が出来上がった上は、たとえ幕府が亡んでも「土蔵つき売り家」という名誉を残すでしょう
 小栗はもはや幕府が亡びていくのを全身で悟っている。貧乏の極みで幕府が亡びても、あばら家が倒壊したのではなく、同じ売家でも、あの造船所のおかげで「土蔵つき」という豪華な一項がつけ加えられる。幕府にとってせめてもの名誉ではないか。という、意味である。
 小栗の残した横須賀造船所は、後の明治国家の海軍工廠となり、海運国家日本の母胎となった。
 横須賀の父として小栗の銅像が横須賀にある(はずである)。
〈小栗と勝海舟〉
 小栗は徳川幕府のために懸命に働いた。
 「両親が病気で死のうとしているときに、もうだめだと思っても、看病の限りをつくすではないか。自分がやっているのはそれだ」
 と、小栗は言っている。
 同じ幕臣ながら逆の立場で行動したのが、勝海舟である。
 小栗と同じ改革派でありながら、薩摩や土佐の反幕勢力と早くからコネを持った海舟は、小栗の方針と対立する。
 幕府が与党、薩摩、長州、土佐など西南雄藩が野党と考えると、小栗はあくまでも与党として幕府が政権を担当する、勝は改革のためには政権交代もやむをえないという考えである。
 そう考えると、自民党に残って改革をすすめようとしている小泉さんは小栗で、自民党に飽き足らず党を飛び出した鳩山さんは勝海舟と言えそうだ。そう言えば、小泉さんは小栗にゆかりの横須賀の出身でしたね。
 慶応4年(1868)、正月。鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗れる。大坂城にいた将軍慶喜は江戸城に逃げ帰った。
 慶喜の逃げ帰った江戸城は大騒ぎになった。官軍(薩長軍)に徹底抗戦するのか、それとも江戸城を開城して降伏するのか。大激論が続いた。
 小栗は主戦論を唱えた。東海道をすすむ官軍の主力を箱根で防ぎ、その間に当時東洋一と言われた徳川艦隊を沼津あたりに進出させ、進軍中の官軍に艦砲射撃をあたえて大混乱に陥れる。さらに、船に幕府歩兵を乗せて大坂に進出し京都を奇襲する、と言うのが小栗の作戦であった。
 余談だが、後に江戸を占拠した官軍の大将、大村益次郎は、この小栗作戦を聞いて、もしその作戦どおりにやられていたら、われわれは長州に逃げ帰らざるを得なかったであろうといったと言う。
 勝海舟は小栗案に真っ向から反対し、降伏開城を唱えた。
 小栗の唱える主戦論では莫大な戦費がかかる。しかし、幕府の財政ではそれを賄うことなど不可能であった。結局、戦争となれば幕府は戦費をフランスからの借款、つまり借金で賄うより他に手段がない。となれば、借金の抵当に土地を担保に入れざるをえなくなり、恐らく日本の主な港は、フランスの抵当に入ったであろう。
 海舟が一番恐れたのはその点であった。もし、そのようなことになったら、徳川が勝つにしろ、薩長が勝つにしろ、その後の日本の独立を脅かすことになると考えたに違いない。更に、海舟を憂慮させたのは、戦争が長引くことであった。
 もし、幕府と薩長の戦いが長引いたとしよう。当然、薩長も戦費が苦しくなる。そうなると後押しをするイギリスに頼らざるを得ない。そうなると、幕府対薩長の内戦は、フランス対イギリスの代理戦争となる可能性すらあったのだ。(図参照)そうなると、外国からの干渉を受け、内乱終了後も独立国として存在できるか疑わしかった。
 結局、外国からの干渉を防ぐには、内戦を早く終わらせることであった。そのために海舟は江戸城を開城することを唱えた。
 徳川慶喜は勝海舟の意見をいれた。江戸城の開城を勝に指示し、自分は上野寛永寺に退き謹慎した。小栗の意見は敗れたのである。
 敗れた小栗は引退して、領地の上州権田村に退いた。しかし、上州に進出した官軍は小栗を見逃さなかった。主戦派の首魁と見た官軍は小栗を捕らえ、養子、又一とともに斬殺してしまった。小栗忠順41歳である。
 その後の時代は小栗の予知した通りに進む。
 郡県制は廃藩置県によって行われ、小栗の作った横須賀造船所は日本が近代海軍を作る上で機能した。小栗の改革は、薩長によって成し遂げられた。そう考えると、近代日本の青写真を薩長の志士たちよりも鮮明に持っていた人物であった。
〈お騒がせ、小栗上野介〉
 小栗と言えばこのことに触れねばなるまい。
 赤城山の徳川埋蔵金のことだ。
 読者のなかにはすでにお気づきのかたも居られたであろうが、小栗は例の徳川埋蔵金の計画遂行者であったといわれている。
 しかし、ウワサで言われているように、300万両といわれる埋蔵金が徳川幕府にあの当時あったのであろうか。300万両もの大金を埋めるほど徳川幕府にあったら、赤字財政に悩んでいた小栗ももっと楽に活動できたであろう。
 埋蔵金伝説は面白いが、そんな余裕は無かったと考えるのが妥当であろう。



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