織田信長
おだ のぶなが
1534〜1582
略歴:
尾張那古屋城(今のナゴヤ)で生まれる
そう言えば秀吉さんもナゴヤの出身でしたなぁ。なかなかやるでしょ。ナゴヤ市。金シャチとドラゴンズだけじゃにゃぁでよ。

 京都の人はよく田舎者を馬鹿にすると言う。
 じつは、織田信長もそんな目にあったらしい。まあ本人は気付いていないが。
 信長が足利将軍家を傀儡にしていた三好氏を追い出して京都を占領したときのこと。信長は三好家に仕えた料理人を捕らえた。
 早速、信長はその料理人に料理をつくらせたが、
 「こんな水っぽいめし、よう食えせんわ!こんな下手くそな料理人、斬ってまえ!!」
と激怒した。(物騒なおっさんや)
 しかし、料理人某。少しも騒がず、「殿さま、もう一度拙者に料理を作らせてください。もし、今度の料理も口に合わなかったらその時はいかようにも御成敗ください」と、言った。そこで信長は次の日の食事を作らせることにした。
 次の日。信長は料理を食べて上機嫌であった。
 「どえりゃあ、うみゃあで。その方、わしの料理人になりゃあせ」
 料理人仲間がどういう訳かと訊ねた。
 「それはやなぁ」と、料理人某は語った。
 「最初の料理なぁ。あれは三好家で出していた京風の薄味や。次の料理はやな、田舎風の濃い味にしたんや。信長公は尾張の出やさかい濃い目の味がお好みやろうと思って、2番目の料理には田舎風の味付けにしたんや」
 この頃から京の薄味、田舎の濃い味と違いがわかる逸話だが、それよりなにより信長のような権力者にたいしても田舎者と見れば、料理人ふぜいでも京都の人間は馬鹿にするという(それも内心で)、いやらしいながらも権力者を手玉に取ったという点で痛快な話である。
 この信長の時代、冠婚葬祭の時の作法は煩わしいものであった。この作法は室町幕府が定めたもので、小笠原流の原型となるのだが、その煩わしさといったら膳ひとつをとるのにも順番がある。例えば海のものを食したあとは山のものを食すといった具合で、なかなかめんどくさい。こういう作法は子供のころから仕込まねば身につくものではない。このような作法を身につけることができた戦国大名は、武田信玄、今川義元、上杉謙信など、室町将軍に近い、いわゆる武家の名門に育った大名だけであろう。
 信長の織田家といえば、父信秀の代で尾張半国を統一した大名で、土豪に毛の生えた存在でしかなく、合戦に明け暮れとても室町の作法どころではなかったであろう。新興勢力の織田家としては進取の気概に富み、室町作法に代表される中世の価値観など省みるゆとりなどなかったに違いない。
 しかし、そんな織田家に育ったとはいえ信長の場合はひどい。信長の少年時代は「ありゃぁ、たわけでにゃぁの」と家中や領民から言われるような不行状だ。
 信長のその頃のいでたちは様々なドラマでとりあげられて有名であるが、茶筅頭で浴衣びら、荒縄を腰に巻き長い刀を差し、腰に無数の袋をぶる下げていた。袋には火打石やら、干し柿やら様々な物が入っている。いずれにしても、その風体は異様と言っていい。
 しかし、信長には信長の理由がある。浴衣びらは動きやすいし、腰の袋はつねに必要なものが携帯できるし、長い刀はそのほうが使い勝手がよかったからであろう。いずれにしても便利であったからそのような異様な風体をしたにすぎない。
合理的であると思えば周りの意を介さずそれを推し進める。信長の気性はその頃から生まれていたのであろう。と、言いたいところだが、もし信長が桶狭間の合戦で敗れて戦死すれば、尾張の大たわけとしか記録に残ったか、またそのことすら残ったかも疑わしい。
 信長が合理的で機能的な人物で、これまでの中世の価値観を破った人物であることは間違いない。しかし、これまでの室町の文化に代表される中世の価値観など、目もくれなかったからこそ、中世の殻を破ることができたのであろう。そう考えると、信長のような人物ができたのも室町の文化のおよびにくい田舎の尾張に育ち、しかも、室町的な教養を身につけることがなかったからとも言える。(勿論それだけではないが)
 信長というと、わめく、叫ぶというイメージがある。ドラマでもそのように描かれている。実際はどうだったかは分からないが、わめかなきゃ信長じゃないよなあ。でも、もう一歩推し進めて、「ナゴヤ弁で喋る信長」というのをどっかのドラマでやってほしいと思う。実際そうだったのに違いないのだから。(無論、今のナゴヤ弁とはちがうであろう)
 一回見てみてェ。ナゴヤ弁の信長。「みゃあ、みゃあ」うるさいかも。
ナゴヤ弁は「名古屋弁会話集中講座」(サンマーク出版)を参考にしました



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