毛利敬親
もうり たかちか
1819〜1891
略歴:
 実質的な長州藩最後の藩主。13代藩主として天保8年(1837)19才の時から明治2年(1869)51才に至るまでの33年の長い期間を勤める。その間、藩財政を立て直し幕末維新の激動を生き抜き、長州藩をして維新の主導勢力にする。
 明治2年(1869)家督を元徳にゆずる。2年後廃藩置県の年に亡くなる。享年53才。

 毛利敬親の容貌は大藩、長州36万石の藩主に相応しい貫禄がある。NHKの大河ドラマ「花神」でも敬親役に金田竜之介が演じていたが、鷹揚で貫禄があった。実際ああいう殿様だったのであろう。(見たい方はTUTAYAにいって借りて見てください)
 では、その毛利敬親。その貫禄でリーダーシップをとり、長州を維新の主動勢力に仕立て上げたのかと言えば、さにあらず。それどころか、家臣が提出する案件に対して常に「そうせい」と承認を与えるのみだったので、世間は密かに、
「そうせい候」
と、呼んだ。
 毛利敬親は家督相続後、窮乏していた藩財政を、村田清風を登用して大改革を行い、実質100万石におよぶ経済力をつける成功を治めており、決して凡庸な人物ではない。
 長州藩には「君臨すれども統治(実際に政治を執行すること)せず」ということが不文律になっていた。
 もっとも、どこの藩もおおむね同じようなものであったし、徳川将軍家からしてそのようなものであり、家康、吉宗、そして最後の将軍慶喜を除けばおおかた老中まかせで、そのことがかえって泰平に寄与した。
幕末の動乱期になると、敬親は「統治せず」の姿勢にもどり、家中の派閥(中道派、尊王攘夷派、佐幕派)の上にあって超然としていた。中道派が政権をとって穏やかな「航海遠略策」をたてたときでも、
「そうせい」
であり、ついで尊王攘夷派(松下村塾閥)が主導権をにぎって、下関通過の外国艦隊に砲撃をくわえるという過激策を決めた時も、
「そうせい」
だった。さらに尊攘派が没落して佐幕派が政権を握った時も「そうせい」と言い、再び尊攘派が政権を奪取し、倒幕戦を決めた時も「そうせい」だった。
明治になって旧大名のひとりが、毛利敬親に、そのことをきいたところ、ああでなければ殺されていたでしょう、といったという。
 ともかくも、長州藩において藩主は起き上がり小法師の重心になる鉄片だった。このおかげで藩論が左右になって激動しても、藩そのものは壊れず、結果的には長州は維新の主導勢力になった。
考えてみれば、日本の君主の役割というものは、おおむねこのようなものであった。日本史において数多くの君主がいるが、絶対権力をにぎった専制君主はほとんどいない。
 鎌倉時代の末、後醍醐天皇は中国皇帝のような専制を得ようとしたが、そのことが南北朝ノ乱という、途方もない長期の乱を生んだことを考えれば、専制とか独裁といった政治構造がいかに日本離れしたものかわかる。絶対権力を握ろうとした織田信長、井伊直弼、大久保利通らもそれを握ったとたん非業の死をとげている。
「そうせい候」と彼らを考えあわせたとき、なにか、日本史の神の見えざる意志のようなものが感じられてならない。



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