毛利元就
もうり もとなり
1497〜1571
略歴:
まあ大河ドラマの主人公だったし省略しましょう

  NHK大河ドラマ「毛利元就」で元就役をつとめたのは中村橋之助である。
 橋之助演じる元就は、従来の元就のイメージを覆すさわやかななかにも愚痴ぽい元就像であった。
 しかし実際の元就は謀略家で、しかも細かい策(卑劣な策)をめぐらす陰険なオッサンであったようだ。(それは決して悪いことではない。戦国の時代なら当たり前の事である)偽手紙を使って敵方を分裂させ、重臣を殺すようにしむけるなど合戦よりも謀略策略を重視した人物である。
 まあ一言で言えば常に相手の隙を覗う油断ならないオッサンである。わたしのイメージでは毛利元就と言えば今は亡き成田三樹夫のような感じである。
 ちょっと想像してみてください。成田三樹夫が
 「わしゃくれぐれも言うておくが、一本の矢は簡単に折れても三本の矢は折れせんので。そうじゃけえ兄弟3人力あわせて毛利の家を支えてやってつかえや。のう」
 と、広島弁で言っているところ!!まるで仁義なき戦いだ。迫力ありまっせえ。



 ところでこの毛利元就という人物。この人も遅咲きの人物である。
 毛利家大躍進の合戦となった厳島合戦が行われたのが、弘治元年(1555)元就59才のことである。
 元就が毛利家を継いだ当時、安芸の吉田郡山の一土豪に過ぎなかったが山口の大内、出雲の尼子の二大勢力の間を巧みに遊泳し、同じ安芸の豪族吉川氏、小早川氏に自分の息子を送り込み、反対派を粛清し当主を暗殺するなどしてこれを乗っ取り厳島合戦の頃には安芸一国をどうにか治めるまでになった。
 厳島合戦の勝利の後は、2年後の弘治3年(1557)には山口の大内氏を滅ぼし、その10年後の永禄9年(1566)宿敵尼子氏を滅ぼし中国地方を治める大大名になっている。このとき元就70才。「人間50年」と言われた時代の70才だから相当な高齢である。
 そう言えば徳川家康も亡くなったのは74才。偉くなる人はやっぱり最後は寿命が勝負なんだろうねえ。



 ところで毛利元就と言えば「3本の矢」の逸話は有名だが、あの話はフィクションのようである。
 しかし「3本の矢の教え」はフィクションでもその逸話のもとになった元就の書状が残っている。世に「三子教訓状」と言われるものがそれである。
 これは元就が陣中から、長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景に宛てた長文の直筆の書状である。
 この中で
 「毛利家をよかれと思っている者は他国は言うに及ばず、当国にも一人もいない」
 「毛利の家中にも、人により、時々によりさほどよくは思わぬ者ばかりのはずだ」
 と、説き
 「3人の仲が少しでも離れるなら、必ず共に滅びると思え」
 「元春、隆景に隆元の意にそわない言動があっても隆元は親の気持ちを持って堪忍してくれ。また隆元に2人の意にそわない言動があっても、2人は道義に従ってほしい。2人は毛利家に居れば福原、桂などの家来と上に下になって、何事も隆元に従わなければならなかったはずだ。他家を相続したとは言え身を慎まなければならない」
 と等、3人が少しでも不和になれば3家とも滅亡するとくりかえし、くどいほど説いている。
 その中には、死んだ妻を慕う言葉や、元就の愚痴がせつせつと綴られていて、元就の人間性をよく表わしている。
 まあこういう手紙が残っていてくれたのは元就にとって大変幸せなことであった。このような人間味を感じる手紙が残っていなければ毛利元就は策謀好きの残忍なジジイというイメージしか残らなかったであろう。



 元就は元亀2年(1571)、居城吉田郡山城で亡くなっている。享年75才。
 山中鹿之助を中心とする尼子の残党のゲリラ活動や、九州大友氏との抗争など最晩年まで心休まる時は少なかったようである。戦争と策謀に明け暮れた人生であったが「百万一心」と家中の団結の大切さを説き、それが毛利の家風として後々まで伝わったようである。
 はるかな後年のことだが、関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は広島120万石から萩32万石に大減封された。この時当主、毛利輝元は養うことができないからと家臣たちを解雇しようとした。しかし毛利家家臣たちは「無禄でもかまいませぬ」と毛利家を慕って萩まで付いてきた。戦国時代にあって稀と言うべき家風と言っていい。それも元就の教訓、心がけの賜物であろう。



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