楠木 正成
くすのき まさしげ
?〜1336
略歴:
 河内の豪族。
 後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画に参加し、河内の赤坂城で挙兵。落城後は千早城にこもり、知略兵法を駆使して幕府の大軍を防ぐ。
 幕府を滅ぼし、建武の中興がなると、河内守に任じられる。
 のちに、政府に背いた足利尊氏と戦い、尊氏を破るも、ふたたび力を盛り返した尊氏と兵庫湊川で激突。敗れて死亡する。
 
 正成は、忠君愛国の鑑とされ、楠公(なんこう)または大楠公(だいなんこう)と尊称される。

<劇的な登場>
 劇的な人物である。
 なにしろ、その登場から劇的である。

 倒幕の企てが露見した後醍醐天皇は京の都から逃げ延び、今の京都府の南部にある笠置山に篭もって挙兵する。
 この時のこと、天皇は夢を見る。庭に大きな木があり、その南側に玉座が置いてある。どこからともなく童子が現れ、帝をその玉座に誘う。
 「はてな」
夢から覚めた帝は考える。
 「木の南に玉座?木に南と書けば楠という字になるな。楠という名前の者を頼れというお告げやろか」
 早速、近臣に楠と名乗る武士は居らぬかとお尋ねになると、河内に楠木某という豪族がいるとのこと。早速、その武士を招く。その楠木某こそ楠木正成である。
 帝のお召しを受けた正成は、
 「戦いとは武略と知略で決まるものでございます。ただ武略に頼るのであれば六十余州の兵をもってしても武蔵、相模の武士に勝つことはできません。しかし、東国武者には武略はあっても知略はないので、この点恐れることはありません。ですから、もし戦に破れても目先の勝敗にこだわらず、長い目で御覧下さい」
と、状況分析したのち、
「正成一人いまだ生きてありと聞こしめし候はば、聖運はつひに開くと思し召し候へ」
と、頼もしげに答えた。

 この有名な楠木登場の記述は「太平記」によるものだが、まるでスター登場のような劇的なシーンである。
実際にこのような問答があったかはわからないが、正成は戦略的にみて帝に勝ち目があると考えたにちがいない。それは、鎌倉幕府が長くないということ、知略に持ち込めば勝ち目があるということを見抜いていたからこそ、後醍醐帝の呼びかけに応じたと考えられる。

正直なはなし、正成の出自に関しては未だに不明な点が多い。ただ、幕府側の記録に「悪党楠木兵衛尉」と書かれた資料がある。「悪党」とはこの当時「非御家人の反体制派」という意味があったから、河内の一土豪に過ぎなかったのであろう。
ただ、河内という畿内の土地柄から考えて、流通や、金融に関わる商人的な要素をもつ武士だったのではないかという説が有力である。この当時、自衛のため商人でも武装するのが当り前だから、武装集団が武士団に変わることは大いにありうる。
運送業者、もしくは流通業者のような商人的な要素がつよい武士だからこそ、幕府の身分帳に記載されず、謎の人物になったと考えれば筋が通る。

この当時、商人にとって鎌倉幕府は困った政権であった。
幕府は、御家人の借金を帳消しにする「徳政令」をたびたび発布した。
御家人にとっては救済措置になるが、金を貸す商人はたまったものではない。
正成も、商人であればこの不合理な仕打ちを嘆いたに違いない。
「なんでやねん」
そして、
「こんな幕府、潰れたらええねん」と考えても不思議ではない。

当時、鎌倉幕府も制度疲労して有力御家人も幕府を見限りつつあった。御家人や勢力を伸ばししあった商人たちからも見限られつつあった幕府に、正成は先行きが長くないことを敏感に感じつつあったのではないかと思う。
そのような中で、後醍醐天皇の呼びかけに応じたのは、いまこそ幕府を倒せるという確信があったからに違いない。
実際、後醍醐帝の呼びかけに応じたのは、正成と同じように「悪党」と呼ばれた、播磨の赤松円心や伯耆の名和長年らであった。かれら、「悪党」が後醍醐天皇に応じたのは決して偶然ではない。
自分たちを脅かす鎌倉幕府を倒し、朝廷の権威で擁護してもらいたいと言うのが最大の理由であろう。


<天下の大軍を相手にする>
 鎌倉幕府に反旗を翻した正成は本拠地の河内の赤坂城に立て篭もった。
 この報を聞いた幕府は大軍を赤坂城に差し向ける。「太平記」では幕府側数十万に対して楠木側は数百であった言われる。この数は太平記の誇張であろうが大軍が赤坂城を取り囲んだのは間違いない。
 正成は大軍をひきつけてこれを翻弄した。太平記では様々な戦術が興味深く述べられているが、要するにゲリラ戦法である。
 正成はこの赤坂城で三ヶ月持ちこたえ、落城後逃亡に成功した。幕府軍としてはさんざん翻弄されたあげく、正成を取り逃がすという失態を犯した。
 正成は潜伏後、今度は赤坂城の近くの千早城に篭城。ふたたび幕府の大軍を一身に引き受けたが、正成は幕府軍をゲリラ戦法で翻弄する。
 しかも、正成は土地の農民を動員して幕府の背後を脅かさせ、補給を絶たせるなどさせている。補給がなくして戦争はできない。幕府軍の中には勝手に国へ帰るものも出てくる有様であった。

 千早城を落せない幕府の権威は著しく失墜した。これまで幕府に従っていた者も、後醍醐に従うものが出た。足利尊氏や、新田義貞などがその代表であり、彼ら有力御家人が幕府に反旗を翻したことで幕府は遂に滅びた。

 後醍醐の倒幕の最大の功労者は一身に幕府の大軍を引き受け倒幕の気運を盛り上げた正成である。



<後醍醐天皇と足利尊氏の間に挟まれて>
 幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、天皇親政の政治を行う。のちに「建武の中興」とか、「建武の新政」と呼ばれる政治である。
 結果的にはこの「建武の新政」は大失敗であった。
 倒幕戦に功労のあった武士たちにろくに恩賞を与えず、新政権にも参加させないようにした。その結果、武士たちの不満が猛然と湧きあがり、政治に大混乱を引き起こしたのだ。
 後醍醐帝にすれば、武士などいらない。というのがその政治姿勢であり、天皇を中心とした公家は政治を行う昔の姿が正しいと思っている。
 しかし、実際はこの国を支えていたのは新興階級であった武士であり、彼らを無視して政治ができない状態になっている。この混乱は、現実を無視し、理念が先行した後醍醐帝の強引な政治が引き起こした物であった。

 武士たちは急速に新政から離れていった。そして、武家政権である幕府の復活と、その棟梁には前幕府打倒の功労者であり源氏の名門である足利尊氏がふさわしいと考えた。そのような世論が巻き起こるのもやむを得ないところである。

 この間、正成がどのように考えていたかは、はっきりとはわからない。
 しかし、足利尊氏による幕府の復活が望ましいと考えていた節がある。時勢を見抜く鋭い目をもった正成のことだ。武士たちの不満が高まっていることはわかるし、後醍醐帝の時代に合わない反動政治は早晩破局を迎えることはわかっていたであろう。

 そして、足利尊氏は朝廷に謀反を起す。そして京都を占領し、後醍醐帝は比叡山へ逃げるという事態が起こった。
 しかし、正成は朝廷軍を率いて知略で足利軍を破る。京都を追われた尊氏は九州へ逃げ延びた。
 ボロ負けして逃げてゆく尊氏と和睦しようと進言した者がいた。他ならぬ正成である。
 「足利尊氏と和睦すべきだと思います。使いには私が発ちましょう」

 尊氏と和睦し政権に入れるということは尊氏の幕府を認めるということである。実際、後醍醐政権を存続させるには、後醍醐帝のもと尊氏が幕府を開いてこの混乱を収拾するしかなかったのだが、尊氏を追い落とし、勝利にうかれる後醍醐帝の周辺は正成の言うことがわからなかった。
 「正成ハンは不思議なことを言わしゃいますな」と後醍醐帝の側近たちは嘲笑し、正成の進言を退けた。



<君の御戦、必ず破るべし>
 果たして、正成の予測どおり、尊氏は九州で兵を整え上洛の途につく。その数、十数万の大軍である。
正成は、朝廷に進言する。
「一時、帝を比叡山に移し、足利軍を京都に入れます。そして補給路を絶ち兵糧が尽きて疲れたところを襲えばお味方の勝利間違いありません」
しかし、この策も帝の側近に否定される
「1年のうちに2度までも帝を山門(比叡山)に臨幸させるなど、もっての他におじゃります。大体敵が大軍であっても味方が少数であっても聖運が天に叶えるゆえ負けるなどということはあらしゃいません」という観念論の前に正成は絶望し、黙々と手勢をまとめ兵庫に赴いた。

兵庫に赴く途中、正成はこのように言ったという。
「この度は、君の御戦必ず破れるべし。正成、和泉河内の守護として勅命を蒙る間、軍勢を催すに、親類一族、猶もって難渋の色あり。いかにいわんや国の人民においていや。是すなわち天下君にそむけ奉る証拠なり」
今回の戦いでは、私の身内のものでさえ、兵を出すのをいやがっている。これは人心が朝廷から離れた証拠である。今度の戦いでは官軍は必ず敗れるであろう。

この途中、正成は息子の正行(まさつら)と今生の別れをつげた。有名な「桜井の別れ」である。(この桜井の別れは史実かどうか不明)

兵庫湊川で足利の大軍を迎え撃った正成。手勢は700余騎。その死闘は6時間の長時間に及んだといわれる。
その最期は73騎になり、ついに、正成は一族ともども自刃して果てた。

正成の死により建武の新政は崩壊し、後醍醐天皇は京を終われ2度と京都の地で玉座につくことはできなかった。

それにしても、正成のように時勢が見えていた人物であれば、後醍醐帝を見限って足利方へ寝返ることもできたはずである。現に正成と同じように「悪党」と呼ばれ倒幕戦に尽力した赤松円心も早々に見切りをつけ足利方に寝返っている。
なぜ、そのようなことができなかったのか。やはり、個人的に後醍醐帝との結びつきが強くなり、帝を見捨てることができなかったのであろう。

足利方の記録に「賢才武略の武士とはこういう男だと、敵も味方もその死を惜しまぬ者はなかった」とある。尊氏も正成の人物に感じ入ったようで、正成の首を丁重に家族に送り届けている。



<利用された正成>
 ところで、正成ほど戦前と戦後で評価の変わった人物は珍しい。
 
 戦前は、皇国史観の形成に楠木正成は格好の人物であった。死ぬまで忠誠を尽くした楠木正成。忠君愛国の鑑、大楠公。
 特に戦中は特攻精神を煽るため楠木正成の名前が持ち出された。あの沖縄への大和特攻作戦の名前は「菊水作戦」というがこれも正成の家紋の「菊水」から取られた名前だ。

戦後、一転して楠木正成はこれまでの反動で皇国史観の形成に寄与した人物として真っ先に否定された。
 楠木正成と聞いて、右翼的とか軍国主義的だと拒否反応をする人も多いと思う。

 しかし、実像は先述したような人物である。時代によって実像が歪められる事はよくあることだが、それは歪めて伝えた人物が悪いので、その実像自体は悪くないのである。

 楠木正成という人物を考えるとき、歴史上の人物や歴史そのものがイデオロギー(この場合皇国史観だが)の形成に利用されるときの罪の大きさを感じざるを得ない。



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