小林虎三郎
こばやし とらさぶろう
1828〜1877
略歴:
長岡藩士
佐久間象山に学び、吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」といわれた。
病身なことから「病翁(へいおう)」と号す。
戊辰戦争後、長岡藩の大参事に推される。米百俵の話は有名。

 時事ネタということで。
 小泉首相が所信演説で「米百俵」の話をされた。そこで、「米百俵」って何?っていうのが今回のお話。
 前に「河井継之助」のところで話をしたが、越後長岡藩は会津藩擁する奥羽越列藩同盟の加担し、薩長軍=官軍と戦った。
 結果的には敗れ、河井は戦死。長岡は2度の落城により(何故2度もと言う方は河井継之助の項を参考)、長岡は灰燼に帰した。
 更に、奥羽方の敗戦は長岡の運命を過酷にした。
明治新政府は負けた奥羽越の諸藩を賊軍として過酷な戦後処理を行った。中でも長岡藩の厳しい抵抗を恨んだ新政府は、長岡藩の禄高を7万4千石から2万4千石に減らされた。
 当時、長岡藩は表高7万4千石とはいえ、実質12万石あったと言われていたが、そこから2万4千石に減らされたのだから、藩士たちの生活の苦しさは想像できるであろう。
 このころの長岡藩士の生活の苦しさを今に伝える建物が残っている。(正確には復元されたのだが)
 山本五十六の生家である。山本の生家は、太平洋戦争の長岡空襲によって焼失してしまったが現在、山本公園内に復元されている。
それは、はっきり言ってあばら家(失礼)としか言いようのない粗末な家である。
 山本五十六が生まれた高野家(山本は養子として、山本家に迎えられた)は長岡藩の中でも中級武士の家柄で決して低い家柄ではない。その高野家でさえ戊辰戦争後に建てた家は粗末なものであった。他の武士の生活の程度が偲ばれよう。
 長岡藩士の生活は困窮を極めた。その有様を見かねた支藩の三根山藩(1万1千石)は、見舞いのため米百俵を送った。
 しかし、大参事だった小林虎三郎は、米百俵を元手に学校を建てると言い出した。
 それを聞いた、藩士たちは激昂し、米をよこせと詰め寄った。
 しかし、虎三郎は藩士たちを前に、
 「百俵の米など藩士全員に配り歩いたところで、数日しか持たん。食ってしまえばそれまでである。しかし、それではいつまでたっても本当に食えるようにはならない。学校を建て人物を育成するのが、まだろっこしいようだが一番の近道である。今は百俵の米が、そのときには万俵にもなるのだ」
 と、説得し、初志をつらぬいた。
 虎三郎の学校は明治3年に「国漢学校」と名づけられ、後の長岡高校になり、出身者は小野塚喜平次(東大総長)、斎藤博(駐米大使)、山本五十六などが出た。
 この逸話は、昭和18年山本有三の戯曲として発表され、初演は築地の東京劇場で演じられたことから有名になった。(と、資料には言われているけど主に地元で言われているんじゃないのかなあ)
 私が、この逸話を知ったのは中学のとき。道徳の教科書に載っていた。教科書に載るぐらいだから結構有名な話なのだろう。その後、実際長岡に行くと「米百俵」と名前を冠した菓子まで売っている。(平成2年当時)
 今回、総理の所信演説に取り上げられたことで、地元長岡は「米百俵」の逸話を広めようと活動を起こすらしい。
 なんにしても目先の利益に追われる昨今、先を見通して行動した「米百俵」の逸話が広がることは良いことだと思う。
〈継之助と虎三郎〉
 さて、虎三郎も傑物ならば河井継之助もまた傑物であった。実際、この二人はよく比べられることが多い。(虎三郎ファンはだいたいアンチ河井である)
 この二人の関係はどうだったのであろうか。実はご期待通り(?)仲が悪かった。
 藩政をめぐっての意見対立が、感情的にまで発達し犬猿の仲になったらしい。
 やがて、継之助は藩政の中枢に昇ったが、虎三郎は病身のため役職に就く事は無かったが、常に継之助の藩政を批判し、継之助の批判勢力として藩内に隠然として存在した。
 この当時、虎三郎と継之助の間に逸話がある。
 ある日、虎三郎の家が火事になった。焼け出されて途方にくれていた虎三郎のもとに家財道具を荷車に積んで火事見舞いに駆けつけた男がいる。その男こそ他ならぬ喧嘩相手の河井継之助である。
 感動した虎三郎は、「せめてもの礼である」と言って、継之助の藩政を痛烈に批判した。虎三郎にすれば継之助の間違いをただし、正しい方向に導いてやるのがせめてもの礼であると考えたのであろう。
 継之助はその後、知人宅で「小林は豪い」と言ってしきりに誉めたと言う。
 まあ、継之助とすれば虎三郎が焼き出されたのを幸い、恩を売って批判を止めさせようと火事見舞いを送ったのだろうし、また、虎三郎を誉めたのも、面と向かって痛烈な批判を受ければ誉め飛ばす(?)しか方法がなかったのだろうと思う。
 それにしても、小林虎三郎という人物は、自分の信念を曲げないというか、やっぱり「豪い」としか言いようが無い。
 ここまで書いて思い至ったのだが、「信念の人」と「頑固じじい」との違いは何なのか?どこが違うのか。やっぱり見識の違いなのでしょうね。



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