吉良義央
きら よしなか
1641〜1702
略歴:
官名「上野介」(こうずけのすけ)。徳川幕府の高家筆頭。忠臣蔵の敵役。

<忠臣蔵の敵役>
 赤穂事件からおよそ300年。吉良上野介ほど悪く言われ続けた人物はおるまい。なんといっても忠臣蔵の話は上野介がとびっきりの悪人でなくては始まらないのである。

 芝居の上野介の因業じじいぶりは見事といっていい。
 だいたい、忠臣蔵の前半の見せ所は上野介じじいの悪態に、耐えに耐えた内匠頭が堪忍袋の緒を切って遂に松の廊下で刃傷に及ぶところにある。
 この場合、上野介が内匠頭につらくあたればあたるほど、悪人であればあるほど、刃傷に及んだ内匠頭とその仇を討った赤穂浪士がひときわ引き立つというものである。

 考えてみれば忠臣蔵と言う作品が現在にいたるまでウケてきたのは、様々な要素があるだろうが、要素の一つに、耐えに耐えた内匠頭がついに上野介に刃傷に及んでしまった点が世の中のお父さんに共感を持って迎えられたからではあるまいか。上野介のいじめに耐える内匠頭の姿が、上役に耐えるお父さん方にダブって共感し、刃傷のシーンで一瞬スカっとする。この構図が、忠臣蔵が恐怖のワンパターンでありながら世の中のお父さんにウケてきたのではあるまいかと思う。


<実録 刃傷松の廊下>
 しかし、浅野内匠頭の刃傷が吉良上野介のいじめによるものであるというのは、忠臣蔵と言うお芝居の虚構であり実際には原因はわからない。
 しかし、徳川家の公式記録、『徳川実記』では、
「吉良は、朝廷、幕府の礼節典故に通じていることではその右に出る者がいなかった。そのため名門大名といえどもみな辞を低くして彼の機嫌をとり、儀式のあるごとに教えを受けた。それゆえ、彼は賄賂をむさぼって莫大な財をなしたという。
 しかるに内匠頭は少しもへつらうことなく、このたびの接待人を賜っても賄賂を遣わなかったので、吉良はその事を憎み、何事も内匠頭に告げ知らせず」
 と、あり、享保期の学者、室鳩巣(むろ きゅうそう)は『赤穂義人録』で、
 「義央自らその能を矜り人に驕る。長矩人となり強硬、ともに屈せず」
とある。これは早い時期から刃傷の原因が吉良の浅野に対してのいじめであったと言う説が定着していたのであろう。
しかし、この説は刃傷の原因がわからなかったからこそ生まれた説といっていいであろう。
なぜ、このような説が生まれたのであろうか。それは内匠頭が吉良に斬りつけた際に叫んだ、
「この間の遺恨、覚えたるか!」
と、言った言葉が一人歩きしたのではないだろうか。
浅野は吉良に「遺恨」があるとういう。しかし、その遺恨の内容はわからない。しかし、周囲の人は判らないじゃ納得しない。そこで人々は遺恨の内容を憶測する。そこで一番説得力があるのが吉良のいじめだ。
そして吉良はなぜ浅野をいじめたか?
 浅野の賄賂が少ないことに吉良が根に持ったのだと考えればストーリーが成り立つ。
 つまり、私は、吉良いじめ説というのは、根拠が無いのに関わらず、内匠頭の「この間の遺恨覚えたるか」という言葉だけが一人歩きして生じた説に過ぎないのではないかと思う。
 だいたい、内匠頭は本当に上野介を殺したいと思うほどの憎しみをもって刃傷に及んだのであろうか。結論から言えば、浅野に遺恨はあっても、それは殺したいと思うような遺恨でもなければ、憎しみをもって刃傷に及んだのではなく、突発的におきた一時的な感情、もしくは乱心によるものであったのではないかと思う。
 ここで、現場の状況を追いながら見てみよう。

 この時の詳細な記録は、旗本、梶川与惣兵衛(かじかわ よそべえ)という人物が残した日記、「梶川与惣兵衛日記」に残っている。梶川は吉良に斬りつけた浅野を抱きとめた人物で、(お芝居では内匠頭を抱きとめて、「殿中でござる!」と叫んでいる人)いわば事件現場の一部始終を最も近い位置にいた目撃者である。

 「梶川日記」によれば事件当日、所用があって大廊下(松の廊下)で上野介と打ち合わせをしていると、何者かわからぬが、「この間の遺恨覚えたるか!」と叫んで上野介の背後から斬りつけた。何者と思って見ると、浅野内匠頭。
「これは」と吉良が振り向いたところを眉間にもう一太刀。上野介がうつぶせに倒れたところに、さらに内匠頭が斬りかかったので、梶川は内匠頭に飛びついて背後から抑えた。

 ここで注目しなければいけないのは、芝居では刃傷の直前、上野介と内匠頭は口論。上野介の罵詈雑言に耐えかねて刃傷に及んだ形になっている。しかし、実際は刃傷の直前、上野介は梶川と会話を交わしていたのであり、内匠頭とは口論などなかった。つまり、直接、刃傷を誘発する状況ではなかったのである。
 しかも、不可解なのは内匠頭の行動だ。このとき内匠頭は烏帽子大紋に長袴といった芝居で見るようなあのカッコウでとても動きにくい。しかも斬りつけた刀は「小サ刀」といって短刀である。短刀で人を殺傷しようとするならば切るより突かなくてはならない。しかし、内匠頭は動きにくい格好でしかも斬り付けたのである。これらの事を考えると、内匠頭は吉良を本当に殺害しようとしたのか、また、遺恨というが殺傷に及ぶだけの遺恨だったのか疑いたくなる。

 斬り付けられた吉良上野介は、傷は浅かったものの、高齢(61歳)と典医が止血できなかったこともあって軽いショック症状を起こしていた。しかし、外科医の栗崎道有がまず気付け薬を飲ませてから止血、傷口の縫合をおこない、さらに軽い湯漬けをとると、正気をとりもどした。

 上野介は取り調べに対し、「意趣をふくまれる覚えは無い。おおかた浅野の乱心であろう」と、答えた。上野介にとって嘘偽りの無い実感であったであろう。


<実像、吉良上野介>
 上野介の地元、愛知県吉良町では、今も上野介を名君として称えている。
 上野介の功績としてあげられるのは、洪水に苦しむ領民のために「黄金堤」を築いた・・・、また、新田の開拓に努めた・・・、また、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがり領内を巡検し、領民と語らったなどである。実際吉良町には「赤馬」という郷土玩具があるが、これは上野介の馬をモチーフにしたという。
 世間の吉良への逆風をものともとせず、今もって名君として慕われているのだから、上野介の実像を考えるとき、この点のことを考慮に入れねばなるまい。

 上野介は決して業突張りのくそじじいではなかったのである。 
 
 しかし、誤解を受けやすい人物だったのではないかと思う。
 刃傷事件の3年前、やはり勅使饗応役に就いた津和野藩主、亀井茲親(かめい これちか)が怒って上野介を斬ろうと計ったが、家老の才覚で穏便に済ませた話や、親戚の津軽公の屋敷で御馳走を受けたとき、「おかずは良いが、飯がまずい」と放言したというはなしが伝わっているが、自分の思ったことを考えなしに放言してしまう癖があったのではないかと思われる。
 
 考えてみれば、上野介の家柄の「高家」は殿中の行事を司る家柄であり、吉良家は高家の筆頭の家柄である。官位は従四位上。禄高4200石ながら並みの大名よりは位が高い。
 当然、気位が高く、田舎大名を見下した言動をしがちになるのも当り前と言えば、当り前かもしれない。

 勅使饗応の指導を行うたびに、ついついチクリ、チクリと皮肉をいう上野介と、それを受けるたびにフラストレーションがたまる内匠頭。そして、松の廊下のあの場面。何かの拍子で乱心状態に陥った内匠頭が、たまったフラストレーションが爆発したのがあの刃傷であった。赤穂の悲劇は、上野介の性格と、内匠頭の乱心が引き起こしてと言えそうである。

 刃傷事件の1年9ヶ月後の元禄15年(1702)12月18日。赤穂の浪士は吉良邸に討ち入り、上野介を討ち取る。
 吉良上野介。62歳。その首は赤穂浪士の手で、浅野内匠頭の墓前に供えられた。

 あわれをとどめたのは、上野介の実孫で養子の、吉良左兵衛義周(きら さひょうえ よしちか)である。彼は、討ち入りの日、薙刀をもって応戦したが、負傷した。その後、赤穂浪士に切腹の沙汰が下ったのと同時に、幕府より「当夜の振る舞いよろしからず(父を守れず、討ち死にもしなかったので)」と言うことで、領地没収のうえ、信州諏訪高島、諏訪家へお預けとなった。
 厳しい制約を受けた幽閉生活も3年になろうとした宝永3年(1706)1月20日、左兵衛義周は21歳の若さで没した。

 名門、吉良家はここに滅びたのである。

 上野介と言う人物を冷静に考えたとき、身に覚えのないことで刃傷を受け、揚げ句のはてに恨みを受けて殺され、おまけに家は断絶させられると言う、まったく不幸としか言いようが無い。



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