河井継之助
かわい つぎのすけ
1827〜1868
略歴:
幕末 越後長岡藩士 。120石取りの中級武士の家に生まれる。開明思想の持ち主で、藩主牧野忠恭(ただゆき)に取りたてられ、郡奉行、町奉行にとりたてられ藩政改革をおこなう。
 家老職に就任してからは富国強兵策を実施。執政、軍事総督になる。
 戊辰戦争においては藩論を局外中立に統一。官軍に中立の嘆願書を提出するも拒否され、奥羽越列藩同盟に参加。北越の地で官軍と死闘を繰り広げる。
 河井の負傷により、長岡軍は敗走。会津へ退却中、会津領只見にて没す。

 私が河井継之助を知ったのは、高校生の時、司馬遼太郎「峠」を読んでからである。
 司馬遼太郎の「峠」はそれまでの私の歴史観を覆した。それまで薩摩,長州が勝ち、幕府が滅びたのは、薩長に開明的な人物が多くおり、幕府にはそういう人がいなかったからだと思っていたが、河井継之助を知ってからというもの決してそうではなかったのだということがわかった。
 だいたい、明治維新の歴史というものは薩長ら勝者がつくった歴史であり、それが必ずしも真実ではない。真の歴史というものは敗者の方からも光をあてないと浮かび上がらない。
 しかし高校生当時、河井の事を調べようと本屋に行ったり図書館に行ったりしたがなかなか資料がない。さがすのに大分苦労した。
 だいたい、西郷さんや竜馬はよく取り上げられているが、河井のことをとりあげたドラマなんかほとんどない。NHK大河「花神」で高橋英樹が後半で演じて出てくるぐらいである。
 と、思っていたが1999年の12月30日テレ朝系で「俺流サラリーマン 河井継之助」という特集が組まれていた。阿部寛が河井を演じていたが、ちょっとカッコ良すぎるんじゃねえかと思った。それでもテレビドラマの主役にまでなったのだから、私が調べ始めた頃に比べてだいぶ変わったなあ。
 河井は安政の大獄以前から幕藩体制の限界を感じ、士農工商の身分制の崩壊を早くから察知していた。このころ、坂本竜馬は一介の剣術使いにすぎず、西郷隆盛は薩摩藩主島津斉彬の命により、一橋慶喜の将軍擁立運動の奔走に手一杯であった。だいたいこの当時幕藩体制の崩壊を予見していた者など皆無であろう。河井は迫る外圧に対し、従来の幕藩体制では対応できないことを優れた洞察力で見抜いていた。
 しかし先の見えすぎる人は組織にはなじみにくい。ましてや河井は正しいと思ったことは行動におこす人物であった。まだ部屋住みの身でありながら、藩主牧野忠雅に抜擢されて役職についたこともあるが、藩の重役たちに疎まれて辞職を余儀なくされている。河井が再び藩に登用されるのは、時勢が風雲急を告げ、河井をおいて他に長岡の舵取りができない状態になってからである。
 無役になった河井は江戸や横浜、ついで西国を遊学している。西国遊学では佐賀藩の軍事工場を見学し、長崎の賑わいを見て、西南雄藩の台頭を予見している。時に河井32才、安政6年(1858)のこと。井伊直弼が強権を発動し安政の大獄が行われ、幕府の権力が高まった頃のことである。
 河井の予見どうりやがて西南雄藩が台頭し、軍事力、政治力を背景に発言力が強くなる。このような時、幕府は長岡藩主牧野忠恭を老中に命じた。老中は現在の大臣に匹敵する重職である。しかし、河井はこのような難局に老中職を勤めるというのは火中に栗を求めるようなもの、今は長岡藩を立て直すことが大事と説き、藩主に認められる。そして与えられた任務は藩主の老中辞職の周旋であった。
 河井が幕末の風雲にむけて行った最初の仕事が藩主の辞職運動であり、その手腕がかわれて出世してゆく。この辺なんだか皮肉めいた話である。
 その後、郡奉行、町奉行を歴任、思い切った藩政改革を断行する。遂には莫大な借金を返済し、余剰金10万両を貯蓄するに至る。
 しかし、このころ時代は急展開し、幕府は長州征伐に失敗し、将軍家茂は急死、慶喜が将軍になったが政局は幕府に好転せず、ついに大政奉還して徳川幕府は崩壊した。
 これを見ていた河井は長岡藩の武装化を推進。遂には最新兵器を保有して北越の小藩でありながら、西南雄藩に劣らぬ兵力を保有するにいたる。
 慶応4年(1868)、京都南郊で薩長軍と旧幕府軍が衝突。鳥羽、伏見の戦いである。この戦いを皮切りに戊辰戦争は始まり、内乱状態となる。
 江戸開城後、薩長を主力とする官軍(西軍)は会津征討のため北上、北越の地にも西軍が迫って来た。
 長岡はここで会津(奥羽列藩同盟)につくか、西軍につくか二者択一を迫られる。
 このころ河井は総大将というべき軍事総督の役職にあり、長岡藩を一身に背負う形になっていた。会津か?西軍か?河井は決断を下さねばならない。
 河井の決断は武装中立。つまり会津にも組せず、薩長にも組せず、長岡の藩境を守り、あわよくば会津、西軍の両方に入り仲介の労を取り内乱を終わらせようとするものであった。気宇壮大と言えば気宇壮大だが、長岡7万4千石でそのようなことができると本気で河井は思ったのであろうか?その辺の真意はちょっとわからない。
 慶応4年(1868)5月2日、河井は長岡の南、小千谷に進出していた西軍に局外中立の嘆願に赴く。世に言う「小千谷談判」である。
 談判の行われた場所は小千谷の市街地にある慈眼寺。
 相手方は東山道軍軍監 岩村精一郎。この時23才の血気盛んな若者である。
 「とにかくも、いましばらく、時日をかしていただきとうござりまする。時日さえかしていただければ必ず藩論を統一し、かつ会津、桑名、米沢の諸藩を説得して王師にさからわぬよう申し聞かせ、越後、奥羽の地に戦いのおこらぬように相努めまするでござりましょう」
(なにをほざいている)
と、岩村軍監はおもった。岩村の先入主からみれば、継之助の腹の中はすきとうるほどにあきらかである。「時日をかせ」というが、うかうか時日をかせばかならず戦備をととのえるであろう。戦備をととのえるための小細工に相違なかった。そういうことはすべて諸種の情報からみてあきらかなのである。岩村は、そうおもった。
 継之助は、懐中から書状をとりだし、用意の三方にのせ、岩村に押しやり、
「嘆願書でござりまする。申しあげたきこと、すべてはこの書面にくわしく書き連ねてござりまするゆえ、ぜひぜひお取り次ぎくださりますように」
 官軍総督である公卿に奉ってほしい、というのである。
 岩村軍監は両膝の上においた手をにぎりしめ、肩を怒らせた。
 −舐めるな。
 と叫びたそうな心情が、その表情にあらわれている。すぐ声をはっした。
 「お取り次ぎはできぬ」
 つづけさまにいった。
 「嘆願書をさしだすことすら無礼であろう。すでにこれまでのあいおだ一度でも朝命を奉じたことがあるか。誠意はどこにある。しかも時日をかせ、嘆願書を取り次げ、などとはなにごとであるか。その必要いささかもなし。この上はただ兵馬の間に相見えるだけだ」
                                                (司馬遼太郎「峠」より)
 会談はわずか30分あまりで決裂した。
 会談が決裂した以上、長岡藩は会津藩擁する奥羽列藩同盟に参加。長岡に同調する越後諸藩を加えて「奥羽越列藩同盟」を結成した。ここに凄惨極まりない北越戦争の火蓋は切って落とされた。
 ここに一つの選択肢として西軍に降服する道もあった。げんに河井は「わしの首に3万両をつけて降服せよ」と言ったという。
 しかし、長岡藩牧野家は徳川譜代の大名、徳川家には恩顧がある。しかも会津とは隣藩として心情的にこれを討つことはできない。
これらが長岡の藩論が開戦に傾いた原因である。
 長岡軍と西軍との衝突は長岡と小千谷の間、信濃川を挟んでおこなわれた。戦局は長岡軍優勢に進み西軍は攻めあぐねる。しかし、5月19日突如長岡城を西軍は奇襲。もろくも長岡城は陥落する。
 しかし、河井はあきらめない。城を失った長岡軍は北越平野を転戦。各地で激戦を繰り広げる。そして、7月24日長岡の北、八丁沖とよばれる泥沼を通って長岡城を奇襲、これを奪還した。しかし、これが長岡軍の最後の抵抗であった。
 翌25日、前線で指揮をとっていた河井は左足に銃弾が命中して重傷。29日には城を支えきれず落城。長岡軍は会津めざして敗走。河井も担架に乗せられて会津目指して落ち延びる。
 長岡から会津までは八十里峠越えの厳しい山道である。
「八十里 こしぬけ武士の越すとうげ」
 河井 自嘲の句である。
 河井が会津領只見塩沢村についたのは8月11日である。
 ずっとついてきた、外山脩三という青年に言う
「武士の世はもうおわる。このいくさが終われば、さっさと商人になりゃい。これからは商人の世よ」
 河井が死んだのは8月16日。42才であった。
 河井ほど先見性のある人物はあの時代、それほどいなかったし、その行動力、企画力ともこれにならぶ人物は少なかった。
 しかし、いかにせん河井のあたえられた舞台は長岡7万4千石。7万4千石ではあまりに河井は偉すぎたのかもしれない。
 2度の落城で長岡の町は灰になった。その苦労はあとあとまで長く続く。
 こんにち、地元長岡では、河井を賛美する人は多いが、非難する人も多いこともまた事実である。



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