伊東甲子太郎
いとう かしたろう
1835〜1867
略歴:
 常陸生まれ。初名は鈴木大蔵。
 江戸深川の伊東道場で修行。師の死後、娘を娶り伊東姓を名乗る。
 元治元年、新撰組に応募。参謀として迎えられる。
 第二次長州征伐で芸州広島へ出張し、長州征伐の中止を建言。このとき薩摩藩と接近する。
 翌年、新撰組を脱退。配下の士と「高台寺党(御陵衛士)」を結成。倒幕と新撰組の潰滅を画策するが情報がもれて新撰組に暗殺される。
 
 なお、「甲子太郎」を「きねたろう」とよむのは誤り。

  慶応4年(1867)11月15日。京都河原町近江屋で幕末の風雲児坂本竜馬が盟友中岡慎太郎とともに暗殺された。

 現場に残った暗殺者の遺留品は刀の鞘と、下駄。

 130年以上経った今日まで、その暗殺者は特定されず、さまざまな説が浮かびあがっている。
 幕末の政局を大きく転換したといわれる「竜馬暗殺」。今回はその暗殺者について考えてみたい。

● 竜馬暗殺時の背景
ところで、竜馬が暗殺されたときの時代背景はどうだったのか?
 
 第二次長州征伐に失敗した幕府は、慶応2年(1865)幕府の後ろ盾となっていた孝明天皇が崩御。幕府はいよいよ窮地に陥り、薩摩藩、長州藩を中心とする倒幕派は勢いをつけていた。

 これに対して、公武合体(注@)と雄藩連合を主張する土佐藩は新たな打開策を模索していた。
 その打開策が、坂本竜馬の「大政奉還」であった。

 「大政奉還」は幕府が政権を朝廷に返還するというものである。これにより、倒幕派は幕府を倒す名目が無くなるとともに、朝廷の名のもと、徳川慶喜を首班とする雄藩連合による新政府が樹立することになる。
 いわば、徳川家にとっては「大政奉還」は幕府は崩壊するものの政権を維持することができるという、いわば「名を捨てて実を採る」策であった。

 この竜馬の「大政奉還」は土佐藩の後藤象二郎を通じて前土佐藩主、山内容堂に提出された。
 この妙案に山内容堂は「大政奉還」を土佐藩の藩論とし、徳川慶喜に建言した。

 慶応4年(1867)、10月14日。徳川慶喜は山内容堂の建言をいれて朝廷に「大政奉還」を奉請。
 実はこの同じ日、密かに薩摩長州の両藩主に「倒幕の密勅」(注@)が下っていたが、「大政奉還」によって「倒幕の密勅」は無効となった。
 
 さらに、竜馬は「大政奉還」と同時に新政府の青写真というべき「船中八策」を後藤に示していた。
 「船中八策」は憲法の制定、議会制度、親兵など新政府の骨格を示したもので、後の「五箇条の御誓文」の基礎になったといわれている。

 「大政奉還」と「船中八策」により土佐藩は京都政界の中心に踊り出し、後藤象二郎はその功により、一躍150石の藩主側近から1500石の家老格に昇進した。

 一方、倒幕派は「大政奉還」より目論見は挫折、政局から大きく後退せざるを得なかった。



注@・・・公武合体とは公=朝廷、武=幕府のこと。すなわち、朝廷幕府が一体となった政体のこと。
注A・・・「倒幕の密勅」は今日では岩倉具視ら倒幕派公家による偽勅(偽の詔勅)といわれている。


● 竜馬暗殺時のそのまわり
それでは暗殺直前、竜馬の周りはどのような勢力がいたのか?

〈徳川幕府〉
 起死回生の策、大政奉還によって新局面を迎えた幕府は、坂本竜馬の「船中八策」を骨格とした新政権の青写真を必要としていた。
 竜馬も幕府の高官、永井尚志を通じて新政権樹立の根回しをおこなっていた。
 永井は、将軍徳川慶喜の側近であったので、永井を通じて慶喜も竜馬の新政権構想を知っていたと思われる。
徳川慶喜 永井尚志 松平容保 近藤勇

 このころ、幕府高官(恐らく永井尚志であろう)から、京都の警察組織の長官だった
京都守護職、会津藩主松平容保へ「竜馬を捕縛しないように」という通達があったようである。
 
これまで、竜馬は幕府方の警察組織(京都守護職、町奉行、新撰組(注@)、見廻組(注A))のお尋ね者であった。
 これまで、竜馬は討幕運動の策謀者として、危険人物としてマークしていた。
 慶応2年(1866)、竜馬が、中岡慎太郎とともに奔走し、悲願だった薩長同盟を成功させた直後、伏見の寺田屋で幕府の役人に囲まれ捕縛されかかった。
 このとき、竜馬はピストルで応戦。からくも脱出に成功したがこのとき捕吏数名を射殺した。
 これにより、竜馬は公然指名手配人になっていたのである。

 しかし、大政奉還以降、幕府にとって竜馬は必要になった。そこで、「竜馬を殺すな」という指令が出ており、新撰組、見廻組も京都守護職を通じてこの通達を受けていたと考えられる。



注@ 新撰組・・・京都守護職の指揮下におかれた警察組織。おもに浪人を中心に結成をされた。この当時、局長は近藤勇。池田屋事件以後一躍有名になった。
注A 見廻組・・・京都守護職の指揮下におかれた警察組織。幕府旗本、御家人の子弟によって結成された。佐々木只三郎が組頭である。


〈公武合体派  土佐藩・福井藩〉

山内容堂 後藤象二郎 松平春嶽
 坂本竜馬の大政奉還は、公武合体を藩論とする土佐藩、福井藩を政局の中心に踊り出した。
 土佐前藩主、山内容堂は「大政奉還」を竜馬から受けて建言し、表立って奔走した後藤象二郎を一躍1500石、家老格に昇格させた。

 同じく、公武合体派の福井前藩主、松平春嶽は竜馬とも旧知の仲であった。
 春嶽は竜馬の「海援隊」に資金を提供し、いわば株主にもなっていた。
 こう考えると、竜馬の卓越した政治活動と、薩摩長州など雄藩に匹敵するほどの政治力の背景には、出身藩の土佐藩と福井藩など公武合体派の藩があったことが言える。


〈倒幕派〉

西郷隆盛 大久保利通 桂小五郎
 「大政奉還」倒幕派にとって大きな痛手であった。
 
 「倒幕の密勅」を引き出したものの、「大政奉還」により倒幕の名目を失い、「倒幕の密勅」から始まる武力倒幕のシナリオは無効となった。それどころか、政局のイニシアチブは倒幕派から公武合体派に移り、このままでは倒幕の機運が後退する恐れがあった。

 たしかに、かつて坂本竜馬は倒幕派にとって中岡慎太郎とともに薩長同盟の功労者であり、ここまで倒幕の機運をもりあげた立役者であったが、今の竜馬は公武合体派に寝返った「裏切り者」であり、討幕運動を進める上で「邪魔者」として映ったであろう。

 ちなみにこの当時、倒幕派の2大勢力は薩摩藩と長州藩であったが、長州藩は禁門の変以来朝敵になっていたので京都政界に表立って足を踏み入れることはできなかった。
 京都政界の倒幕派の最大勢力は薩摩藩と倒幕派公家であった。(ただし、この当時薩摩藩は水面下はともかく、表立っては倒幕活動を行っていない。薩摩が表立って倒幕の旗幟を鮮明にするのはこの後である)


● 竜馬暗殺の現場
では、ここで竜馬の暗殺現場を見てみよう。
 
 竜馬が殺された河原町近江屋は現在石碑が残るのみで当時を偲ぶものはなにもない。
 この近江屋のすぐ近くには土佐藩邸があり、裏は寺になっている。つまりもし襲われた場合、土佐藩邸に逃げ込むか裏の寺に逃げ込むことができる安全な場所であった。
 それならば最も安全な土佐藩邸に居ればよかったと思うが、竜馬は土佐藩を脱藩した身なので藩邸に起居することは敷居が高かったらしい。

中岡慎太郎
暗殺の様子は中岡慎太郎が駆けつけた土佐藩士に語っている。(中岡は2日後の17日夕刻絶命)
 
 中岡の証言によれば刺客は数名。そのうち一人が竜馬や中岡と親交がある十津川の郷士の名刺を出し面会を求めた。また、切り結んだとき、刺客の一人が「コナクソ」と四国弁で叫んだこと。
 また、致命傷を負った中岡にとどめを刺そうとした刺客にもう一人の刺客が「もういい、もういい」と言って止めたこと。さらに刺客団が引き上げるとき小唄を歌いながら引き上げたという。

 現場に残された暗殺者達の遺留品は料亭「瓢亭」の焼印の入った下駄と刀の朱鞘であった。
 
 「瓢亭」はこの当時新撰組が頻繁に使用した料亭であり、刀の鞘は新撰組隊士原田左之助の物だと証言する者があった。しかも、原田は伊予松山出身。刺客が叫んだ「コナクソ」と四国弁で叫んだという中岡の証言と一致する。
 これらの物証から竜馬暗殺は新撰組の仕業と考えられた。

 しかし、ここで一つの疑問がある。
 暗殺者の物証が多すぎるのだ。
 例えば刀の鞘。常識で考えて暗殺者が刀の鞘を忘れて引き上げるだろうか。

 中岡の証言では刺客は「もういい、もういい」と言ってとどめを刺さず、小唄を歌って引き上げた、いわば余裕を持って引き上げたのである。そのなかで暗殺者の「あし」がつく物証を残したとは考えにくい。(しかも新撰組は暗殺のプロである)
 これはこの暗殺があたかも新撰組が行ったように見せかけるために何者かがわざとこれらを残したとしか思えないのである。

 そして、ここに、まるでサスペンスドラマで怪しい人物の影が殺人現場に出没するように、竜馬暗殺の周辺に見え隠れする人物がいる。

 それが伊東甲子太郎である。



● 現場に出没する伊東甲子太郎の怪しい影

伊東甲子太郎はもともと新撰組の隊士であった。後から入隊したのに関わらず、いきなり参謀に迎えられたところを見ると腕が立つのみでなく、国学などの教養があったのであろう。
 しかし、どちらかと言うと才子といったような人物で、倒幕派が勢いをつけ時勢を転回しつつあると見るや、孝明天皇の御陵を守ると称して「御陵衛士」となり新撰組を離脱した。
 このとき伊東は配下を率いて離脱「高台寺党」と称し、政治活動を行った。
 伊東は新撰組から一転。倒幕活動を行い、新撰組の潰滅を画策した。そして、薩摩藩など倒幕勢力に足繁く通うようになったのである。

 さて、暗殺者の遺留品を「新撰組の原田の物」と証言したのは他ならぬ伊東甲子太郎であった。
 さらに伊東は暗殺の数日前、竜馬を近江屋に訪ねている。しかも、竜馬に「新撰組が狙っている」とわざわざ忠告している。

 伊東は竜馬の潜伏場所を知り、しかも怪しい遺留品を新撰組のものだと証言した。なぜ、伊東はこうも暗殺現場に出没するのか?

 私は、伊東はこの事件を解く鍵を握る人物であると思っている。


● 暗殺者は見廻組か?

今井信郎
しかしながら、竜馬暗殺に関する、見廻組関係者の証言が多い。
 
有名なのは、見廻組隊士、今井信郎の供述である。

 今井信郎は幕府軍として函館戦争に参加。戦後新政府軍に降伏した。
 その後、今井は刑部省の厳しい取調べを受けている。
 今井は、竜馬暗殺は見廻組の仕業であり、刺客団は、佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安太郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の計7名と供述した。
 直接竜馬を暗殺したのは渡辺、高橋、桂の3人、今井は下にいて家人が騒ぐのを取り静めていたと証言した。

 しかし、後に今井は明治30年代に入って、「近畿評論」という雑誌で「坂本竜馬を殺したのは私である」と前言を翻す形で証言している。

渡辺 篤
 もう一人、元見廻組隊士渡辺篤が、大正4年、いまわの際に、「坂本氏を暗殺したのは自分である。生涯隠し続けようと思っていたが、これを打ち明けてこの世を去りたい」と言った。
 渡辺篤は維新前には渡辺吉太郎とも名乗っており一刀流の名人であった。

 この2人の見廻組隊士の証言は食い違いが見られるものの、具体的な証言が多くかなり有力な証言であると思われる。

 しかし、見廻組が暗殺犯として、疑問点が残る。
 どのようにして、見廻組は竜馬の潜伏先を突き止めたのか?
 また、どうして、指名手配犯であった竜馬の殺害を公表しなかったのか。(竜馬は表向きは指名手配犯であるから公表しても差し支えないはずである)
 見廻組犯行説を採るときこの2点が引っかかるのである。



● 事件の裏に見え隠れする薩摩藩の影
竜馬が暗殺された近江屋の子孫のお宅から近年興味深い資料が発見された。
 海援隊幹部、佐々木多門の密書である。
 この中で、
 「右のほか、才谷(注@)殺害人、姓名迄相分り、是に付き薩藩の処置等、種々愉快の義これあり」と、竜馬暗殺に薩摩藩が関与していることをうかがわせる記述がある。

 更に奇怪なのは戊辰戦争後、例の見廻組隊士、今井信郎の助命運動を行ったのが、西郷隆盛その人であったということである。
 なぜ面識も無く、しかも、竜馬暗殺の容疑が濃厚に残る今井を西郷が助命運動を行わなければならなかったのか?

 これらのことから、竜馬暗殺の背後に、西郷隆盛もしくは、西郷が代表する薩摩藩が深く関与していたとしか考えられないであろう。



注@・・・「才谷」とは坂本竜馬のこと。竜馬は「才谷梅太郎」という変名を使っていた。



● 私説 竜馬暗殺
以上のことを踏まえて、竜馬暗殺の犯人を考えてみたい。
 
 私は、竜馬暗殺の実行犯は見廻組であった思う。
 しかし、実行犯である見廻組の黒幕は誰か。
 わたしは、大政奉還によって利害が対立した倒幕派の薩摩藩であると思う。

 しかし、実際に薩摩藩の誰が竜馬暗殺を示唆したのかわからない。
 この当時、薩摩の最高実力者、西郷隆盛は本国薩摩にいた。
 ナンバー2の大久保利通は竜馬暗殺のおきた11月15日に大坂から入京したばかりであった。
 西郷、大久保とも竜馬暗殺の当日はアリバイがある。
 しかし、アリバイがあるからといっても実行犯ではないのであまりアリバイ自体に意味があるとは思われないが。

 いずれにしても、倒幕派の最大勢力、薩摩藩が黒幕である。
 しかし、倒幕派の薩摩藩がどうして幕府の警察組織、見廻組を動かし得たのか。
 わたしは、この暗殺劇のお膳立てを整えたのが伊東甲子太郎であると見ている。

 伊東甲子太郎は薩摩藩に接近していたが、これを受けて薩摩の要人が竜馬の暗殺を指示した。
 しかし、伊東と竜馬は顔見知りの仲であり、万が一仕損じたとき伊東の立場は不利になる。伊東としては自らの手で暗殺を行うのはリスクが多すぎた。
 ここで、伊東は元新撰組の顔を生かして、同じ警察組織の見廻組に竜馬暗殺を働きかけたのではないだろうか。
 竜馬の潜伏先を見廻組に教えたのはやはり伊東である。
 しかも、伊東は暗殺事件の数日前、竜馬に面会し「新撰組が狙っているから気をつけろ」と忠告している。これも竜馬の潜伏先を偵察し、なおかつ暗殺関与のカモフラージュではなかろうか。

 しかし、見廻組はなぜ「公然たる犯罪者」である竜馬を殺したことを公表しなかったのか。
 それは、公表できなかったのであろう。というのは、幕府上層部から「竜馬を殺すな」という通達もあり、また、竜馬を殺すことによって竜馬の背後の土佐、福井など公武合体派を敵に回すことを恐れたためと思われる。

 では、なぜそのようなリスクを犯してまで竜馬暗殺に踏み切ったのか。
 それは、竜馬のいままでの行動が、倒幕活動家のそれであったこと。また、大政奉還は徳川家温存の苦肉の策であるにもかかわらず、結果的には幕府転覆であり、見廻組など警察組織としては憎んでもあきたらない存在であったのではなかろうか。

 「見廻組は竜馬の殺害の件を公表しない」と見越した伊東は竜馬暗殺の罪を新撰組に押し付けることを考える。
 竜馬を暗殺したのが新撰組ということになると、倒幕派の恨みを買うことはもとより、土佐、福井などの親徳川の公武合体勢力、さらには「竜馬を斬るな」といった幕府内での立場も悪くなる。
 新撰組の潰滅をはかる、伊東にとってそれは非常に好都合であった。

 伊東は、暗殺後の混乱に乗じて現場に鞘と下駄をおき何気ない顔をして「新撰組の仕業である」と土佐藩士らに証言した。

 私は、この事件には伊東甲子太郎が大きく関与し、策士といわれた伊東らしくこのように立ち回ったのではないだろうか。

 わたしは、伊東甲子太郎は幕府にも倒幕派にも顔が利くことから2重スパイのような活動をおこない、混迷する政局の中でイニシアチブをとろうとしたのではなかったか。
 そんな彼だからこそ、薩摩と見廻組を結んで竜馬を暗殺するという離れ技が出来たのではなかろうか。

 以上は、あくまでも私の仮説である。


 坂本竜馬の暗殺は時代を大きく転回した。
 倒幕派は竜馬の死を契機に巻き返しをはたし、この年の12月9日「王政復古の大号令」により、徳川家の領地を取り上げることを発表。
 是に抗議する形で、幕府軍は新政府軍と激突。武力倒幕へと一気に時代はなだれ込んでゆくのである。

 竜馬の遺骸は中岡慎太郎の遺骸とともに暗殺の3日後の11月18日、京都東山の霊山に葬られた。
 幕府の役人の目を逃れるため夜の闇の中で密かに行われたといわれる。


 ちょうど、同じ時間、伊東甲子太郎は、新撰組の近藤勇に呼び出され近藤の妾の家で酒宴をおこない、酩酊した帰り道の油小路。そこで待ち受けていた新撰組の隊士たちの闇討ちにあい殺された。近藤の呼び出しは伊藤を酩酊させて殺す罠であったのだ。

 かれの遺骸は、そのまま油小路に放置された。伊藤の遺骸を引き取りに来る高台寺党をおびきよせる囮につかうためであった。

 「策士」伊東らしからぬその最期。「策士、策に溺れた」と言うべきか。



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