今川義元
いまがわ よしもと
1519〜1560
略歴:
駿河の守護、今川氏親の3男。初め僧籍にあって承芳と称す。
兄、良真と家督を争って勝ち、今川家を継ぐ。
小田原の北条、甲斐の武田と同盟を結び、西に進んで三河を併合。大勢力を築いた。
永禄3年、上洛の軍を起こすが途中、尾張の織田信長を攻める。瞬く間に織田方の砦を攻め落とすが、桶狭間で休息中織田信長の奇襲にあい戦死。

<桶狭間合戦の謎>
 桶狭間の合戦は織田信長が今川義元を破り、日本史の表舞台に踊り出た、教科書にも載っている有名な合戦だ。
 なんと言っても、この合戦は日本人好みの大逆転劇であったことが更に有名にした。なにしろ今川軍2万5千。対する織田方2千。まともにぶつかったのでは勝てる道理がない。
 古来、この合戦は奇襲によって行われたとされた。すなわち、「信長は敵の油断を見抜いて背後に迂回し、奇襲攻撃をした」と。
 今まで、桶狭間合戦の記述のほとんどは、迂回奇襲説をとり、「桶狭間と言う深い谷間に今川軍は隊列を伸びきった形で休息を行っていたが、織田軍は手薄になっている側面から攻撃しひとたまりもなく今川軍は壊滅した」と言う意味の記述になっている。
 しかし、最近の研究ではこの迂回奇襲説に「?」をつけることが多くなった。中でも、信長研究の根本資料『信長公記』と大きく矛盾するからである。
 そもそも、この迂回奇襲説は明治時代、陸軍参謀本部が編集した古戦史研究の「桶狭間役」に始まったらしい。
 参謀本部「桶狭間役」によれば清洲を出発した信長は熱田を通って前線の善照寺という砦につくと、放っておいたスパイから「今川義元の軍勢は桶狭間で休息中」という報告をうける。そこで信長は敵の目から行動を秘匿するため大きく迂回し、義元本陣を見下ろす太子ヶ根に到着。そこから一気に義元本陣に切り込んだという。
 なにしろ、参謀本部という戦争のプロが、正確な地図を元に詳細に分析したものであるから、これ以上ない説得力をもっていた。したがって明治以来この説は定着し今日にいたっている。
 しかし、この迂回奇襲説には史料的な根拠が実はない。そもそも陸軍が古戦史を研究する目的は歴史的事実を明らかにするよりも、そこからどのような戦訓を引き出せるかである。この当時、陸軍の関心事は満州方面(現在の中国東北部)に終結しつつある仮想敵国ロシアの大軍とどのように対抗していくかであった。
 ロシアの大軍とまともにぶつかって勝ち目はない。そこで巧妙な戦略、戦術を駆使して勝利を得る着意が必要であり、そのための教育訓練が必要であった。
 その要請に立った場合、まさに桶狭間の合戦は格好の題材であった。
 端的に言えば、桶狭間の合戦で実際に迂回が行われたかどうかは2次的な問題で、重要なのは実際に迂回を行うとすればどのように決断し、どのように行動するかが明治の軍隊にとって重大な関心事であったのである。
 だいたい、義元が休憩していた桶狭間から、信長がいた善照寺の砦まで迂回路で約6キロ離れているが、スパイが報告に戻るまで約1時間。信長が軍勢を動かすのに早くても2時間。あわせて3時間はかかる。その間、義元が休憩しているという保証はない。
 また、途中、見晴らしのいい場所を通るが、ここを敵に発見されずにどうして通れたのか。
 従来の迂回作戦には疑問符が多い。
<海道一の弓取り 今川義元>
 兵力の劣るものが、白昼敵を破った。もし、迂回奇襲によらないとしたら。
 ここで出てくるのが今川義元愚将説である。
 先陣で酒盛りをするような愚将だから油断して負けたというのである。
 これは、彼が公家風のお歯黒をつけたり、輿を使っていたことも相まって一般化した義元のイメージである。
 しかし、実際の義元はどうだったのか。
 彼は天文5年(1536)弱冠17歳にして、名門今川家を継ぐ。
 今川家は足利将軍家の親戚にあたり、「足利家が絶えたら、吉良家が跡を継ぎ、それができなかったら今川家がこれに次ぐ」と言われた。後の徳川御三家のようなものであろう。
 幼くして仏門に入っていたが、兄氏輝の急死に伴い家督争いが起きる。この争いに勝って義元は家督を継いだのである。
 天文10年には、武田信玄と合意の上、信玄の父信虎を駿府に保護し、これを足がかりに武田と同盟を結ぶ。そして、北条氏康と対戦しこれを破っている。
 さらに、西に転じて天文17年3月、三河小豆坂の合戦において織田信秀(信長の父)と対戦、撃破する。翌18年には三河安祥城を攻め、城主である信長の兄、織田信広を生け捕りにし、これを清洲に送り返すが、その見返りとして松平竹千代(後の家康)を人質にとった。これにより三河の支配を確立した。
 天文21年には、三河と尾張の国境ちかくの鳴海の城主山口左馬介を調略で寝返らせ、しかも大高、沓掛の両城を手土産にさせる大成功を修めている。
天文23年には、北条、武田と三国同盟を結び、東の備えを固め西へ向かって大進撃を行う準備を整えた。
 こうしてみると、義元はなかなかのやり手で愚将どころか、「海道一の弓取り」の名に恥じず、武田信玄、北条氏康とならぶ名将であったことがわかる。げんに桶狭間当時、信長もじりじりと義元の前に押されていたのである。
<実説 桶狭間の合戦>
 永禄3年(1650)5月12日。今川義元は2万5千の大軍を率いて駿府を発した。
 現在では6月中旬。梅雨の最中、不安定な天候が続いた。
 5月18日。尾張の国沓掛に到着。信長の居城、清洲までおよそ25キロ。半日の行程である。
 この圧倒的な大軍を前に信長は軍議らしい軍議も開かなかった。
 明けて、19日。今川軍は攻撃を開始。前線の丸根、鷲津の砦に攻撃を開始し、相次いでこれを落とした。
 一方、信長は、丸根、鷲津あいついで陥落の報を受け、突如出陣。
 途中、熱田神宮で軍勢を整え、戦勝を祈願。街道を走って前線基地、善照寺の砦に到着した。
 ここで参謀本部の「桶狭間役」では信長は迂回、谷底の桶狭間に休息した義元を急襲したと説明する。 しかし、信長に関する根本資料「信長公記」では義元は「おけはざま山」という山で休んでいたという。どこにも「谷底」とか「窪地」という言葉は無い。
 しかも、「信長公記」によると善照寺から義元本陣の最短にあたる最前線、中島の砦に入っている。
 この様子を信長公記は「味方が無勢のさまが敵から丸見えしてしまいます」と家老が止めるのを信長は聞かず、「振り切って中島にお入りになった」と、敵に丸見えの道を信長は前進したことが記述されている。
 さらにこの記述を裏付ける別の資料がある。
 尾張徳川家が、桶狭間の合戦を知る古老に聞き書きを行って作成した「桶狭間図」である。
 この図の書き込みにも「善照寺東峡間朝日出山ニテ勢揃有リテ相原ニ掛カリ中島ノ砦ニ入ル」と書かれ、信長公記の記述とほぼ一致する。
 中島砦に入った信長はさらに砦を出て、出撃しようとする。
 そして、信長軍の正面にいた今川軍に攻撃をかけたのである。
 ここで、一つの疑問がある。
 中島の砦は周囲から低い位置にある。
 信長軍の出撃は当然今川方に察知された筈であり、丸根、鷲津の今川軍が信長軍の背後を突かなかったのか。
 ここで、仮説と言えるのは、豪雨による地形の変化である。
 よく、言われるのだがこの合戦では豪雨が降った。信長公記でも、
 俄に急雨石氷を投げ打つように、敵の輔(つら)に打ち付くる。味方は後ろの方に降りかかる。
 と激しい豪雨であったことが述べられている。
 中島砦のあたりは川の合流点にあたり、豪雨ともなれば出水騒ぎになる。当時は湿田など雨が降れば大軍の進軍はままならないであろう。
 豪雨の近いことを察した信長は雨が降る前に正面の今川軍に攻撃を開始。出水の影響を受けない山際に移動する。
 そこへ、待望の雨。丸根、鷲津の今川軍は湿地に足をとられ動きがとれない。
 一方、信長の正面にいた今川軍は義元本隊の前衛部隊にあたり、信長はこれをやぶり、前衛部隊の混乱が後ろの義元本隊を直撃、義元は退却を始めた。これに気づいた信長ははじめて義元に狙いをつけ、これを倒した。
 これが、桶狭間合戦の真実の概要ではないかと思う。
 信長の桶狭間の合戦の勝利。
 迂回奇襲攻撃ではなく、正面から挑んで勝った。これは、豪雨による一瞬の地形の変化にかけた、まさに賭博といってもいい勝利であった。
 それ以後、信長はこのような賭博のような戦いは行わず、敵に勝る大軍を集め、敵を圧倒する合戦を行うようにした。(少なくとも行うようにしていた)
 これは、桶狭間の合戦が信長自身、成功の望みの薄い賭博のようなもので、このような投機性の極めて高い戦いはすべきでないと思ったにちがいない。
 一方、今川義元にすれば勝てる合戦を豪雨という思いも寄らぬ状況の変化により合戦に敗れ、戦死したことは無念であった。
これ以後、今川家は衰退の道を辿るのである。



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