井伊直弼
いい なおすけ
1815〜1860
略歴:
官名は掃部頭(かもんのかみ)
彦根藩主。大老。
彦根藩主、井伊直中の14男として生まれる。
長兄、直亮の養子に迎えられ嘉永3年、彦根藩主となる。
安政5年、大老職に就任。14代将軍に紀州慶福(後の家茂)を決定。勅許を待たずに日米通商条約を結び、尊皇攘夷派を弾圧(安政の大獄)。このため、水戸浪士に襲われ桜田門外で殺された。

<埋木舎時代の直弼>
 先日(2月下旬)、彦根に行った。
 彦根に行くと必ず行くのが彦根城だが、その彦根城とは堀を挟んで反対側の「埋木舎(うもれきのや)」も見逃し難い。
 埋木舎は、井伊直弼が30歳過ぎまで過ごした変哲も無い小さな屋敷だ。以前、埋木舎を見学したことがあるが、かなり手狭な感じを受けた。
 井伊直弼は彦根藩主の14男として生まれた。通常考えればどうころんでも藩主になれるわけがない。直弼が世に出ようとすれば、他の大名の養子になるしかない。
 しかし、養子の口などそんなにあるわけが無い。しかし、20歳の時に養子の話が掛かったが、選ばれたのは異母弟の直恭の方であった。直弼は一生「部屋住み」のまま世の中に埋れていくことを覚悟した。封建社会において武家の次男以下は養子か、妻すら迎えられぬ部屋住みの「厄介者」になるよりほかになかったのである。
世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋れてをらむ心なき身は
と、読んだ直弼は、自ら埋れ木になることを覚悟し、そのすまいを「埋木舎」と名づけた。

 同じ兄弟でも藩主である兄と、ただの部屋住みでしかない直弼との身分の隔たりは相当な物であった。
 あるとき、直弼は偶然、兄の行列に出くわした。当時、彦根藩では藩主の外出に際して誰も屋外にいてはならないというしきたりがあったらしい。逃げ場を失った直弼はあわてて他人の屋敷に逃げ込み、身を隠さざるをえなかった。
 しかし、直弼は世をすねて放蕩三昧な生活を送ったわけではなかった。(というより、放蕩できるような収入がなかったであろう)
 直弼は、埋木舎で茶道、居合、禅、能、歌道に打ち込んだ。後に腹心になる国学者の長野主膳や村山たか女に出会ったのもこの埋木舎時代である。
 このころの直弼についたあだ名が「ちゃかぽん」。「ちゃ」は茶。「か」は歌道。「ぽん」は能の太鼓の音のことだ。直弼の熱中振りが窺える。
 と、言っても藩政に影響があるわけではない。このころの直弼は藩重役にとって話題に上ることもほとんどなく、あっても「お堀端のちゃかぽん様か」と言った程度であろう。
もし何事もなければ、直弼は市井の一文化人として世を終えるはずであった。
 しかし、直弼32歳のとき、思わぬ転機が訪れた。
 長兄で藩主の直亮の後継ぎが急死したのである。
 このころ直弼の兄は養子に出ていたので、そのため、一人残っていた直弼が急遽、後継ぎに抜擢されたのである。
 そして、その4年後兄、直亮の死により、直弼は彦根35万石の領主になった。


<井伊の赤鬼=井伊家の成り立ち>
 ところで、直弼の井伊家は徳川幕府にとってどのような家柄であったのか。
 井伊家は、徳川家康に仕えた井伊直政を祖とする徳川譜代筆頭の家柄である。
 俗に、井伊、本多、榊原、酒井の4家を徳川四天王と称するが、本多、榊原、酒井の3家が10万石そこそこなのに対し、井伊家は破格の35万石。徳川家の信頼厚い家柄といえる。
 もっとも、井伊家が35万石もの大封を与えられたのも、彦根という土地柄もあったかもしれない。
 彦根は地図でみればわかるが、京都への押さえとともに、北陸への押さえにもなる要衝の地である。その彦根を治めるにはそれ相応の軍事力=石高が必要であろう。
 軍事力といえば、井伊家は徳川譜代最強の軍団だといわれた。と、いうのは家康が甲斐の武田家を滅ぼしたとき、大量の武田浪人を井伊直政に預けた。
 当時、武田軍は戦国最強といわれ、旗も鎧も皆赤く「武田の赤備え」と恐れられた。
 この赤備えの伝統は井伊家にもそのままもたらされ、井伊軍団は鎧も、旗も赤一色で統一され、「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」と喧伝された。もっとも、後に「井伊の赤鬼」はこの赤備えと相俟って直弼の政敵たちから直弼の仇名になるのだが。
 とにかく、井伊家はその精強さから、家康から「徳川家の先鋒」を任され、それが代々、徳川家の軍法として伝わった。
 また、井伊家は幕府の大老を出す家柄でもあった。
 大老とは、非常時のみ、老中の上に置かれる役職である。
 これらを見ても、井伊家は軍事的にも、政治的にも徳川家の柱石である家柄である。そして、このことは、井伊家の当主になった直弼も相当意識したに違いない。そして、このことが彼が政治的な決断を下す際に深く影響を及ぼしたであろうことは想像に難くないであろう。


<直弼、大老となる>
 嘉永6年(1853)、大事件がおきる。
 黒船来航である。
 このペリーの黒船来航により、日本は無防備状態であることをさらけだした。
 なにしろ、この頃の日本には海軍はおろか近代的な大砲すらないのだ。防備もなにもあったものではない。
 幕府は、この事態に諸大名から意見を求めている。その中で直弼は、
「今、アメリカと戦っても勝ち目は無い。しばらく戦争をさけ、アメリカ他諸外国と交易をして国力を養い、その後でアメリカを打ち払うべきである」と開国を主張した。
 この意見はけだし卓見と言えよう。
 他の、大名は闇雲に攘夷を叫んだり、あるいは意見にもならないような意見しか述べられなかった時において直弼の意見は正論であると言える。
 しかし、この直弼の意見に真っ向反対した人物がいた。前水戸藩主、徳川斉昭である。

 
  徳川斉昭
 
 斉昭は天皇を尊ぶ、尊王思想の持ち主で、強烈な攘夷論者。御三家である水戸藩主の父として幕政にも大きな影響力のある人物。しかも、海防に早くから目覚め、自藩で海防の演習を行ったり、大砲を鋳造したり、それらが行き過ぎて幕府から謹慎をくらったこともある、いわば海防に関して一家言も二家言もある人物だ。
 斉昭は、人心をまとめるためにも、即座にアメリカと開戦を覚悟すべしと主張し、開国に反対した。
 しかし、直弼の意見が通り、幕府は開国に踏み切る。いわゆる「日米和親条約」である。
 安政5年(1858)4月、直弼は大老に就任した。
 実質上の幕府の最高責任者になったのだ。


<水戸斉昭との戦い>
 アメリカ総領事ハリスは通商条約の締結を幕府に迫る。
 ハリスによると、イギリス、フランスが第2次アヘン戦争で清国を破り、その余勢をかって日本に迫るというものであった。
「そうなる前にアメリカと通商条約を結べば、アメリカが英仏との調停役を引き受ける」と、ハリスは言う。
 ハリスの言うことを聞いて、通商条約を結ぶべきか。直弼は迷う。
 直弼は、条約締結に際して京都の朝廷の許可を得ておきたかった。
 しかし、当時の孝明天皇は大の外国嫌い。容易に勅許は降りない。
 しかも、朝廷に工作し、開国反対を策しているのが、水戸の徳川斉昭である。
 斉昭は、水戸藩士や、攘夷派の学者を動かして公家を遊説。鎖国の保持を策した。
 はたして、朝廷は条約反対に決した。
 勅許が降りる見込みも立たず、かといって時間が迫られる井伊直弼。ついに決断した。
 「なるべく調印を引き延ばすように。やむをえない場合のみ調印するように」
 安政5年6月19日。日米通商条約は締結された。
 その5日後、6月24日。条約調印に反対していた水戸斉昭、松平慶永、一橋慶喜らは急遽、江戸城に登城。勅許なしの条約締結に怒りをあらわに井伊直弼ら政局担当者を詰問するためである。
 その斉昭らを直弼は5時間か6時間も待たせる。なかなかできることではない。
 散々、待たされたあげく、直弼に面会した斉昭は違勅の罪をなじり、直弼を含めた幕閣の交代を求めた。
 このことで、直弼と斉昭の衝突は最早避けられなくなった。
 しかも、この他に問題をさらに大きくしたのが、将軍継嗣の問題である。
 13代将軍家定は病弱のため子供がなく、後継候補に紀州藩主、徳川慶福(よしとみ=このとき12歳)か、斉昭の子供、一橋慶喜が候補として挙げられた。

 当初、一橋派が優勢と見られたこの争いも、井伊直弼が譜代大名を糾合して、紀州の慶福を押し立てたことにより、一気に将軍継嗣は紀州慶福に決まった。
 ここで、直弼を批判する人は、資質(慶喜)よりも血筋(慶福)で将軍継嗣を決めた直弼を保守政治家と断じる。
 しかし、この場合は政局の安定が第一である。そのために、将軍を血筋で選ぶというのは政局安定の観点から理にかなっている。とかく、敵の多い(特に大奥)水戸斉昭の子供を将軍継嗣にするより、はるかに早く政局が安定するであろう。
 さらに、英邁とウワサされた慶喜だがこの当時は一橋家の部屋住みの貴公子にすぎず、実際に政治を担当したことがあるわけではなく、その才能は当時、未知数であった。慶喜が倒幕派に「家康以来の再来」と恐れられたのは遥か後年のことだ。
 もっとも、直弼にすれば一橋慶喜の将軍継嗣など考えられなかったであろう。
 いくら、英邁のウワサがある一橋慶喜でもその後ろ立てとして徳川斉昭が乗り込んでくることは目に見えている。そうなれば、いままで幕政の足を引っ張ってきた斉昭が政権を握ることになる。
 そもそも、幕政はいままで譜代大名が行ってきた。将軍の親戚筋が勝手に幕政を壟断していいものであろうか。いま、幕政を守るのは藩祖以来、幕府の柱石である彦根井伊家の当主である私しかいない。直弼がそう考えたであろう。
 直弼は、苛烈な処分を下す。水戸斉昭を定められた登城日以外に江戸城に上がったことを理由に自宅謹慎を申し付けた。
 この処分に激しく憤った水戸藩士は朝廷に働きかけ、巻き返しをはかる。


<安政の大獄>
 8月8日、孝明天皇の意思を記した、勅諚が水戸藩に下る。
 「幕府の独断による条約調印は軽率な計らいである。幕府の役人はいかなる存念か不審である。国家の大事なので、これからは御三家、諸大名の意見を聞いて慎重に審議するように」
 同じ内容の勅諚が幕府に下ったのはその二日後。朝廷は幕府よりも水戸家を重んずる態度を取り、徳川斉昭の政治的立場を認めたことになる。
 これに対して、直弼は断固とした処置に出る。
 「天皇の威光をかさに勝手に天下を論じれば、国家の騒乱を招くことになる」
 直弼にすれば、これら一連の動きは、水戸を中心とした親藩、外様が結んで反幕府連合をつくる動きに見えたにちがいなく、首魁の徳川斉昭は自分の野望のためには徳川幕府の転覆を企む大悪人としか思えなかったであろう。
 直弼は、勅諚を得るために暗躍した水戸藩士をはじめとして、幕府を公然非難した者を獄に送った。
 また、大名も処分した。
 徳川斉昭   永蟄居
 一橋慶喜   隠居 永蟄居
 松平慶永   隠居 謹慎
 山内容堂   隠居 謹慎
 そして、追求は、吉田松陰、橋本左内ら知識人にもおよび、逮捕者百数十人、死罪8人の大弾圧事件はのちに「安政の大獄」といわれた。


<桜田門外で散る>
 この一連の直弼の動きに、水戸藩の過激派は直弼を暗殺するべく、水戸を抜け出す。
 この連中からすれば、直弼は不倶戴天の仇としか映らなかった。
 攘夷論を無視して開国した「売国奴」であり、帝の意思を無視した「不忠者」である。将軍継嗣では慶喜公を無視し、敬愛する斉昭公を押し込め、仲間を獄に送り処刑した仇である。彼らは「井伊の赤鬼め!!」と憤激した。
 安政7年(1860)3月3日。この日は上巳の節句の大名総登城の日。この日を過激派は直弼襲撃の決行の日と定めた。
この日は季節はずれの大雪であった。この朝、一通の投げ文があった。
「水戸藩士が大老の襲撃を策している。十分注意されるよう」
 しかし、直弼はいつもと同じ供揃えで屋敷を出た。
 午前9時。屋敷を出た行列は、およそ400メートルはなれた桜田門へと進んだ。
 直弼の駕籠を警護する武士は20数名。足軽40名。決められた通りの人数である。
 行列が桜田門外に差し掛かったとき。
 行列の先頭に訴状を持った武士が迫った。供の頭がその武士に近づいた瞬間、その武士がいきなり抜刀。供の頭に切りつけた。
 その直後、周囲に潜んでいた過激派武士が駕籠をめがけて発砲した。銃弾は直弼に命中。直弼は駕籠から動けなくなった。
 その銃声を合図に行列の周囲からいっせいに過激派の武士たちが行列に襲いかかった。
 この日の大雪が彦根方に致命傷になった。
 彦根方は合羽を着込んでいて動きが鈍い上に、刀の柄に柄袋を被せていたためにとっさに刀を抜くことができない。なかには鞘ぐるみ応戦するのがやっとの者すらいた。
 この間に、刺客は駕籠にたどり着き、刀を突き立てる。そして、直弼は駕籠から引きずりだされ首をうたれたのである。この間わずか数分の事と言われている。
 井伊直弼、享年46


<直弼の評価>
 直弼に関して、いままで否定的な評価が多かったように思えてならない。
 それは、強権的な安政の大獄を行ったこともあるだろうが、弾圧された尊王攘夷派が後に天下を取ったことが、直弼の評価を貶めた一因にもなっているであろう。
 しかし、直弼の見識の正しさは、後に明治政府が直弼の開国路線を継承し、欧米列強の知識を吸収し、近代軍隊をもったことを見てもわかるであろう。
 もちろん、水戸斉昭との抗争に目が奪われるあまり、橋本左内、吉田松陰ら有為な士を断罪に処したのは行き過ぎであった。
 しかし、彼も政局を担当するにあたり、相当な覚悟で望んだ。
 家臣に送った手紙に
 「恐ろしさのあまり薄氷を踏む思いである。以前案じていたより難しい事態となり、この先どうなるか心配である。水戸殿ににらまれて、どのような災難がふりかかるかわからない。天下のためとはいえ心痛のかぎりである」
 この手紙とともに、「極秘」と書かれた包み紙に入った紙が残されている。そこには直弼の自筆で、自分の戒名が記されていた。
 戒号  宗観院柳暁覚翁大居士
 直弼は、この国難に際し、畳の上での往生ができないことを予感していたのであろうか。



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