浅野長矩 | |
あさの ながのり | |
1665〜1701 |
略歴:播州(兵庫県)赤穂藩主。内匠頭(たくみのかみ)。
元禄14年(1701)勅使饗応役を命ぜられ、準備をすすめたが、吉良義央に切りつけ即日改易、切腹させられた。
墓は、東京高輪の泉岳寺。
元禄15年(1702)に起きた赤穂浪士の事件。いわゆる忠臣蔵ほど映画、ドラマ、小説、演劇に取り上げられた事件はあるまい。
しかし、あまりにも有名であるがゆえに史実がわからなくなってしまっている。余りに資料が多すぎるためだ。実際、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた理由すらわからないのだ。
よく言われるのは、浅野が吉良に賄賂を送らなかったために、吉良がことごとく浅野につらくあたったために、それを遺恨に思った浅野が吉良に刃傷に及んだと言うのである。改めて、事件を最初から見てみよう。
事件当日、元禄14年3月14日は、京都より朝廷から派遣された勅使と、上皇から派遣された院使に将軍が対面する大切な儀式が行われる予定になっていた。
幕府は恒例として毎年正月、朝廷に年賀のために将軍の代理を派遣していた。これに対し3月に、朝廷からはその返礼として勅使と院使が幕府に遣わされる。
元禄14年幕府は、勅使の接待役として播州赤穂5万石の浅野内匠頭を、院使の接待役に伊予吉田3万石伊達左京亮(さきょうのすけ)村豊をそれぞれ命じた。
2人の指南役は高家筆頭の吉良上野介義央である。
高家とは幕府の儀式を司る家柄で吉良はその筆頭。接待役は吉良の指導を仰ぐことになっていた。
浅野、伊達の両家では早速、吉良に進物を届けて挨拶した。伝えられるところによると、伊達家では黄金100枚、加賀巻絹数巻、狩野探幽の双幅だったのに対し、浅野は鰹節と巻絹1巻であったという。
進物の少なさを根に持った吉良はことごとく浅野につらくあたった。ドラマによれば、勅使が参詣する増上寺の畳替えを参詣前日まで指示しなかったり、嘘の献立を教えたり、儀式に着用する衣服をわざと違うものを教えたりする。そしてチクリ、チクリと皮肉を言う。(このへんの上野介の嫌味じじいぶりが見物)
その恨みつらみが一気に吹き上げたのが、松の廊下の場面。内匠頭はついに吉良に切りつけるのである。
しかし、実際はどうだったのであろうか。
吉良が浅野に対して面白からぬ感情を持ち、わざと間違えるように指導したとする。お芝居では間一髪のところで切り抜けるが、(例えば畳替えの話では江戸中の畳屋を集めて200畳以上の畳の表替えを一晩で終わらせるが、無論お芝居だからできるのであって、実際にはできるはずがない)もし、それが原因で浅野に落ち度があったとしよう。浅野の落ち度は最終的には「お前がついていてどうしてこんな事になったんだ」と指南役の吉良の責任になるのだ。
だいたい、吉良がそのような事をしたというのは考えにくいのだ。吉良の地元、愛知県吉良町では、吉良を名君として尊敬している。金銭に意地汚く、そして底意地の悪い人物が名君として尊敬されるであろうか?
それに、史料的な裏づけがまったくないのだ。
大石内蔵助以下、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った時、『浅野内匠頭家来口上』というのを用意していたがその中には、一言も内匠頭が吉良より受けた恥辱に触れていない。
『浅野内匠頭家来口上』は赤穂浪士が吉良邸に討ち入った趣旨を書いたもので、いわば自分たちの行動をいかに正当であるかということを示そうとしたものである。
もし、浅野に対して吉良のいじめがあったとしよう。それがもとで浅野が吉良に刃傷に及んだとしたら、『浅野内匠頭家来口上』にそのことに触れるはずである。この辺のところ少し説明がいる。
この当時武家の不文律に喧嘩両成敗がある。徳川幕府もその方針をとっている。しかし、幕府は浅野と吉良のこのいさかいに対して幕府の処置は浅野は切腹、家は断絶。吉良はお咎めなし。大石以下赤穂の家臣は喧嘩両成敗を幕府に言い立てたが取り上げられなかった。
大石たちの吉良邸討ち入りの真意は幕府によって行われなかった喧嘩両成敗を自分たちの手で行うことにある。
つまり、浅野の刃傷は、浅野と吉良の喧嘩が原因でなくては喧嘩両成敗の論理は発生しない。大石たちの行動は喧嘩でなくては正当化できないのである。
『浅野内匠頭家来口上』ではそのことに触れてなくてはならないのだが、殆ど触れていない。
確かに、『浅野内匠頭家来口上』では内匠頭が「吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり候処」と述べているが、具体的なことは一切触れていない。もし芝居であったようないじめが真実であったならば、口上書に事細かく書き、浅野と吉良は喧嘩状態であったと言い立てるはずである。
恐らく大石たちも内匠頭の刃傷の原因がわからなかったのではないだろうか。と言う事は吉良のいじめなど無かったことを示している。
結論として言えるのはいじめなどなかった。あったとしても他人から見れば些細なことで、俗に言う馬が合わないと言った類のものだったかもしれない。
例えば、上野介の何気ない一言がいちいち内匠頭の癇にさわったとか、上野介が式当日の多忙にまぎれて内匠頭に指示を出し忘れた、もしくは遅れたために内匠頭が迷惑をこうむったとか、真相はその様なものだったのかもしれない。
その様なことが赤穂の領地と家臣、そしてその身をかけて刃傷に及んだ理由になりうるのか?それは内匠頭の心理学的な問題になりそうである。
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