結城秀康 (1574〜1607)
石像のある場所 福井県福井市 福井県庁前
徳川家康の2男。
長男信康は謀反の罪を着せられて早死にしていますので、本来徳川の家を継ぐ立場にありました。しかし、家康はなぜか秀康を嫌っていたようです。
小牧長久手の合戦の後、豊臣秀吉との講和が成立すると、秀吉に求められるまま、家康は秀康を人質同然に養子に出します。
秀吉は「秀康」の名を与え養子として待遇したようで、秀康の気持ちも実父家康よりも秀吉の方に傾いていたようです。その後、下総の名門、結城氏の養子となり、結城姓を名乗ります。
関ケ原の合戦では、家康の命令により宇都宮にあって上杉軍の南下を防ぎました。
戦後、越前北の庄67万石の太守となり、結城姓から松平姓に戻りました。
弟である、秀忠将軍の下、「製外の家」(徳川幕府の制度に当てはまらない特別の家)として破格の待遇を受けましたが、34歳の若さで亡くなりました。
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